現在位置:asahi.com>北京五輪への道>コラム> 北京便り 重松清 > 記事 ![]() よーし、信じるこの街を2007年08月08日 北京の空は黄土色にくすんでいた。太陽が、まるで満月のように空に浮かんでいる。曇り空というだけではない。数百メートル先のビルが霞(かす)んで見える。遠くの山並みも、どんよりとした空に隠れてしまっている。
五輪開催にあたって北京市が2003年に発表したマスタープランには、大気汚染対策も盛り込まれていたはずなのだが、「1日に1000台のペースで自動車が増えている」とまで言われる経済成長がつづくなか、まだめざましい効果は上がっていないようだ。 街を歩けば埃(ほこり)っぽさに鼻がむずむずしてくる。なにしろ、至るところで工事中なのである。青空にお目にかかれないかわりに、工事現場を目隠しする青いトタンのフェンスが街のあちこちに張り巡らされ、それがまた、よけいに風通しを悪くして……。くしゃみも止まらなくなってしまった。 * 僕が北京を訪れたのは7月16日。五輪本番を約1年後に控えた街に、まだ華やいだお祭りムードはない。いまはお祭りを迎えるための、模様替えの時期なのだ。 古い路地・胡同(フートン)が取り壊され、ビルに生まれ変わる。道路の拡幅工事も多い。郊外では高速道路の工事が進む。繁華街・王府井にある巨大なデパートは、来年の五輪を見据えた改装工事のさなかだった。 ただし、どこの工事現場でも、大がかりな重機はほとんど見かけない。スコップやツルハシをふるう作業員も、手を動かすより、がれきの上に座り込んでおしゃべりをしている時間のほうが長い。せっかちな目で見ると「これで本番に間に合うのか?」と心配にもなってくるのだが……。 肝心の五輪会場もそうだ。青いフェンスが延々と連なる工事現場は、いまはまだ広大な空き地に過ぎない――というのが率直な感想である。 『鳥の巣』の愛称を持つメーンスタジアム(国家体育場)と、シャボン玉を集めて四角い型にはめたようなユニークな外観の『水立方』(国家水泳センター)は、全容をほぼ見ることができるものの、人工の川が流れ、緑が生い茂るはずのメーンスタジアム周辺は、赤茶けた土がむき出しで、工事用車両の出入りさえめったにない。 工事現場の外では、作業員が舗道に水をまき、フェンスをぞうきんでふいている。のーんびり、のーんびり……。舗道に座り込んでたばこを吸う作業員の手に、潮干狩りで使うような小さなじょれんが握られているのを見た瞬間、広大な現場とのスケールの落差に、思わず噴き出してしまった。 決して悪い意味の笑いではない。マイペースのおおらかさに触れて、逆に心配性が吹き飛んだ。「よーし、わかった、信じる、間に合うのを信じるからな」という気にもなったのである。 作業員たちは中国各地から集まって、工事現場の中に立ち並ぶプレハブの宿舎に寝泊まりしている。そんな彼らが買い物をする売店に寄ってみた。店に並んでいるのは食品や飲み物や衣類や家電、そして、テレホンカードに携帯電話、封筒と便箋(びんせん)のセット……。ふるさとに残した家族に、作業員はどんなことを話すのだろう。「お父さんのつくってるスタジアムを世界中の人々が見るんだぞ」と自慢するのだろうか。いささかのホームシックで泣き言を口にしてしまうのだろうか。 * 売店の隣では、公衆電話コーナーの工事が進んでいた。あいかわらず埃っぽく、溶剤のにおいも鼻を刺す。だが、4日間の取材で見てきた中で、作業員が一番てきぱきと働いていたのが、北京とふるさとをつなぐこの現場だったというのが、むしょうにうれしい。 五輪会場を立ち去るとき、『鳥の巣』を遠望できる歩道橋の上で記念撮影する家族連れに出会った。山西省から北京観光に来たのだという。 五輪で一番楽しみな競技を訊(き)くと、30代半ばの女性は迷わず「飛び込み」と答えた。本番でも金メダルが期待される、中国の得意種目である。 「会場の工事、間に合うと思いますか?」 意地悪な質問だった。 だが、彼女はにっこりと笑って「間に合うわよ!」と声をはずませたのだった。 ◇ しげまつ・きよし 63年、岡山県生まれ。早大教育学部卒業後、出版社勤務を経て、執筆活動に入る。フリーライターとして複数のペンネームでルポやインタビューを手がける一方、91年に「ビフォア・ラン」で作家デビュー。99年「ナイフ」で坪田譲治文学賞を、朝日新聞夕刊で連載した「エイジ」で山本周五郎賞を受賞。01年には「ビタミンF」で第124回直木賞を受賞した。2児の父。「家族」をテーマに市井の人々を描いた作品が多く、鋭い切り口で時代を映し出している。 ◆ 中国初の五輪、北京五輪が2008年の8月8日に開幕します。急激な発展を遂げつつあるこの国は大気汚染や施設整備の遅れ、交通事情から食の安全まで、多くの課題を抱えながらも、国の威信をかけた一大イベントを成功させようとしています。作家の重松清さんに激動する中国の今とスポーツの風景を、随時、描いてもらいます。 PR情報 |
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