 |
延長18回、板東は魚津から25三振を奪った |
 |
再試合は徳島商が魚津を破った |
 |
さすがの板東も決勝戦では柳井に打ち込まれた |
第40回大会は、記念大会として初めて全国の都道府県と沖縄の47代表が出そろった。この大会から延長戦についての規定が設けられ、勝負がつかなくても18回で打ち切り、翌日再試合を行うこととなった。その適用第1号がこの大会の準々決勝、徳島商―魚津(富山)。徳島商・板東、魚津・村椿の投げ合いとして知られる名勝負だ。なぜこの規定が生まれたのか。きっかけをつくったのも実は板東だった。
58年春の四国大会。板東は高知商戦で延長16回を投げた。さらに翌日、今度は高松商を相手に延長24回を投げぬいた。2日間で計40回。これを見た役員が日本高野連の理事会で訴えたのが、延長18回打ち切りの規定新設につながったのである。
そんな記録をつくるほど、板東は点を取られない投手だった。身長こそ170センチ満たないが、全身を使ったダイナミックな投法で三振の山を築いた。初戦の秋田商戦では17奪三振。続く3回戦の八女(福岡)戦でも15奪三振と危なげなく、順調にベスト8に進出した。
徳島商と魚津の対決は、予想通り板東、村椿の両右腕の投げ合いで始まった。板東はやや荒れ気味の立ち上がりだったが、じょじょに制球が定まりだし、5回から8回まで一人の走者も出さず、7三振を奪った。だが味方打線も村椿のカーブに手こずり、チャンスをつくれないまま、試合は延長戦に入った。
10回から17回まで徳島商が出した走者はわずか3人。板東の投球もさえまくり、魚津打線から12奪三振。いよいよ最後の18回に入った。
徳島商は1死一、三塁と攻めた。しかしスクイズが捕邪飛となり、その後重盗で勝負をかけたが相手の好守に阻まれた。その裏、板東もピンチを乗り切り、ついに大会史上初の引き分け再試合が決まった。この試合で板東は、魚津打線から25奪三振という驚異的な記録を打ち立てた。
翌日の再試合、魚津が村椿ではなく控えの森内を先発させたのに対し、徳島商は板東が立て続けにマウンドに上がった。板東はこの試合でも9三振をとり、大会通算66三振をマーク。この時点で大会記録の64を上回った。試合も3―1で魚津を振り切った。
準決勝の作新学院(栃木)戦でも板東は先発完投して14奪三振。4―1で決勝へ進んだ。
決勝の相手は柳井(山口)。さすがの板東も準々決勝から4連投の疲労感はどうしようもなかった。いつものスピードはなく、2回に押し出し四球などで3点を先取され、中盤以降にも点を失い、0―7と完敗した。試合後、板東は「精いっぱい投げたが相手がよく打った」とサバサバして答えた。
板東は深紅の優勝旗こそ手に入れることはなかったが、延長18回の死闘と通算83奪三振という前人未到の大会記録は、球史にしっかりと刻みこまれた。