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雨のためグラウンドが使えず、校舎で下半身強化の練習をする選手たち。袖口には「臥薪嘗胆」の文字=1月12日、沖縄県石垣市の八重山商工高で |
まだ夜があけない真っ暗なグラウンド。石垣島にある八重山商工高の練習に一番乗りするのは、いつも監督の伊志嶺吉盛(52)だ。明かりをともし、バックネット横のパイプイスに腰掛け、練習メニューを考える。
「勝つための根拠は練習だけ。今の生徒の多くには小学3年から野球を教えてきた。厳しい練習に耐えてきた子どもたちと選抜に出場できるのは本当にうれしい」
伊志嶺は「小中高の一貫指導」で島の子たちを鍛えあげ、沖縄の離島勢として初の選抜大会出場を実現させた。
石垣島出身の伊志嶺は選手としても甲子園を目指した。島内の八重山農林で1年生から二塁手として試合に出場。無類の練習好きは気の抜けた練習を許せず、「これで甲子園に行けるんですか」と先輩にくってかかった。返ってきた言葉は「お前、バカか」。当時は沖縄本島の強豪校とは力の差があり、離島の弱小チームにとって甲子園は夢のまた夢だった。
沖縄大学に進み、準硬式野球部の俊足外野手として全国選手権連覇を遂げるが、165センチの身長がプロをあきらめさせた。「島に恩返しをしよう」。帰島後、子どもたちに野球を教え始めた。
78年から83年まで八重山商工の監督に。だが、結果は出せなかった。
「高校野球で大事なのは精神面です。それを教えないと勝てないことに気付いた」。指導の未熟さを痛感させられた。
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94年、八島小学校の少年野球チーム「八島マリンズ」の監督に就いた。
ほかの監督らと一緒に島内8チームによるリーグを作った。島に最も足りない実戦経験を増やすのが目的だ。年間試合数は約30から3倍以上に増え、7年後には島の少年野球チームとして初めて全国制覇を成し遂げる。
小学生の受け皿として中学硬式野球ポニーリーグも創設した。「八重山ポニーズ」の監督となりチームを世界3位に導いた。このときの教え子が選抜出場を決めた八重山商工の主力になる。
午前中のゴミ収集業で生計をたて、午後のほとんどを野球に費やす。打ち込み過ぎたのが一因となって2度、離婚した。
なぜ、そこまで野球指導にのめり込むのか。
「長男の死が彼を変えた。島の子供たちのために何かをしようという気持ちが、より強くなった」
40年来の友人である平得(ひらえ)修(53)は言う。
95年、長男球太が20歳で他界した。音楽の道を目指していた息子に「プロデビューが先か、おれたちの甲子園が先か競争しよう」。そんなことを言い合ってきた。
息子に対してもっと父親らしいことができたのではないかと、後悔があった。野球の教え子が、球太に代わる息子になった。
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ポニーリーグの実績が評価されて、03年に八重山商工野球部への復帰を持ちかけられる。話し合いの席で、伊志嶺は言った。「お金はいらない。野球に携われるだけでいい」
2度目の監督就任を機に大好きな酒をやめ、修行僧のように頭もそり込んだ。翌春、少年野球から指導を続けてきた教え子ら17人が入部。彼らに耐えることの大切さを伝えるために、練習着に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と縫い込んだ。
選抜出場が決まった今年1月31日、伊志嶺はグラウンドに駆けつけた約400人の島民らとともに喜んだ。教え子たちに胴上げされると、こらえていた涙があふれ、誰よりも大声で人目をはばからず泣いた。
「選手はよく頑張ってついてきてくれた。甲子園では1試合でも多く勝って島民を喜ばせたい」