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祝賀会では、大人も子供も伝統舞踊のカチャーシーを踊った=沖縄県石垣市で |
雨がやんだ。青空に花火が打ち鳴らされた。停泊中の船から祝福の汽笛が鳴り響く。選抜高校野球の代表が発表された1月31日、八重山商工高が石垣島から初の甲子園出場を決めて人口約4万7000の島は沸き立った。
その夜、高木健(62)の友人が経営する石垣市の繁華街にある喫茶店では、泡盛のグラスを片手に、島の人たちが応援態勢の話に花を咲かせた。
高木は八重山商工高を遠征費の援助などで支えてきた「夢実現甲子園の会」会長。「球場まではやっぱりチャーター機か」「アルプス席では指笛と三線(さんしん)100丁(ちょう)で応援しよう」。話は深夜まで続いた。
高木とともに活動してきた平得修(53)は、顔を赤らめて言った。「子どもたちが島に明かりをともし、大人を元気づけてくれた。次は僕らの番です」
「夢実現甲子園の会」は資金集めの一環で、出場を記念した応援歌をつくり、CDの販売を始めた。選手たちの遠征費集めが着々と進む。
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高校が三つしかない石垣島にとって、甲子園は遠い存在だった。最も近づいたのは88年夏、沖縄大会決勝まで進んだ八重山高。この時は沖縄水産高に0―8で敗れた。あと1勝ではあったが、離島勢には高い壁だった。
「口では甲子園と言うけれど、離島からは無理だと、心の中ではほとんどの人が思っていた」
高木はそう振り返る。
だから、甲子園を目指す選手は島を出た。
野球で上を目指す中学生は、沖縄本島にある強豪校に進んだ。「人材流出に歯止めをかけなくては」。大浜長照石垣市長の命を受けて動いたのが02年当時、市職員の高木だった。島から甲子園に出場することで、島民が誇りを持てるようにするのが狙いだった。
高木は監督の人選を進めた。候補者は身近にいた。少年野球で全国大会優勝、中学硬式野球では世界3位の実績を残した伊志嶺吉盛(52)だ。「野球に情熱を持った彼なら島の歴史を変えられるかもしれない」
伊志嶺は03年、八重山商工高の野球部に招かれた。04年、小学3年生から教えてきた選手たちが高校に進学するとき、ほとんどの選手が島に残って監督のもとで野球を続けた。
八重山商工高は本州などへ遠征を繰り返した。対外試合を増やし、実戦経験が少ない離島の弱点を克服した。
島は活気づいた。
野球好きの子どもたちがざわめいた。選抜出場を喜ぶ八重山商工高の選手たちをグラウンドで見つめた少年野球チーム・八島マリンズ主将の又吉智生(八島小5年)は言った。「島からでも甲子園へ行けることが分かった。自分もここで頑張りたい」
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行政も今回の甲子園出場を歓迎している。
市長の大浜は話す。「昔から石垣島と本土とでは、運動能力や学力などで差があると言われてきた。こうして八重山商工が甲子園出場をつかみ、頑張れば小さな島でも目標を達成できる、ということを証明できた」
バレーボールにも動きがある。八重山バレーボール協会が島内3高校の強化に乗り出している。島をバレーボールの合宿地としてアピールすることで対外試合を増やし、長期指導ができる島内の指導者を育てる取り組みを始める。同協会理事長の根原健(42)は「野球と同じように実戦を多くして、バレーボールに取り組む選手の環境を整えたい」。甲子園出場の効果が、ほかのスポーツにも刺激を与えている。
〈「島」からの主な甲子園〉戦後は53年、86年春と75年夏の洲本(兵庫・淡路島)、62年春と99年夏の久賀(山口・周防大島)、03年春は「21世紀枠」で隠岐(島根・隠岐島)が果たした。日本最南端の高校、石垣島の八重山商工は沖縄の離島勢では初出場。