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震災が結んだ球児の絆 大船渡と神戸の野球部が合同練習

2011年5月30日9時17分

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【動画】岩手・大船渡高校と神港学園野球部が合同練習

写真:神港学園と合同で練習する大船渡の選手たち=29日午前、神戸市中央区、新井義顕撮影拡大神港学園と合同で練習する大船渡の選手たち=29日午前、神戸市中央区、新井義顕撮影

 東日本大震災で被災した岩手県の大船渡高校野球部が29日、16年前の阪神大震災を経験した神戸市の神港学園高校野球部に招かれ、合同練習をした。前夜は一緒に寝泊まりし、甲子園での再会を誓った。

■「甲子園で試合しよう」

 接近する台風の影響で雨となった29日、予定していた練習試合は中止され、両校の部員は体育館でランニングやテニスボールを使った試合形式の練習をして過ごした。

 大船渡の氏家(うじいえ)規元(のりゆき)主将(3年)と神港学園の鳩川(はとかわ)琢磨主将(3年)は「必ず甲子園で試合しよう」とメールアドレスを交換した。

 岩手県沿岸部の大船渡市は震災で300人以上が亡くなり、行方不明者は約150人に上る。野球部員も50人のうち約10人の自宅が流され、部員2人が転校した。

 「被災者のため、地域のために野球をしよう」

 4月7日、震災後初めての全体ミーティング。涙を流しながら訴える吉田亨監督(44)を見て、氏家主将は驚いた。「いつも『自分のために野球をしろ』と言っていた監督が、あんなことを言うなんて」

 吉田さんは大船渡が甲子園初出場で4強入りした1984年選抜大会のときの主将。「大船渡旋風」と呼ばれたが、苦い思いも残った。「『地域のため』と全員がスター気取りになり、次第に結束力を失った」。夏の選手権大会にも出場したが、初戦敗退。2003年の監督就任後、選手には「野球は誰のためでもない。好きだからやるんだ」と強く言ってきた。

 しかし震災後、その考えを変えた。地域の人、他県のチームから多くの支援物資や励ましの声が届いた。「想像以上だった。恩返しをしないといけない」と、27年ぶりの甲子園出場をめざす。

■「神戸は復興した。岩手もきっと」

 神港学園も84年の選抜大会で甲子園に初出場し、大船渡旋風を目の当たりにした。当時からチームを率いる北原光広監督(58)は95年、阪神大震災に遭った。

 校舎は無事だったが、生徒を2人亡くした。「こんな状況で野球をしている場合じゃない」。部員らは避難所となった小学校の体育館で掃除などボランティア活動を始めた。約1カ月後、全体練習を再開。「どうだ?」「うれしいっす」。そう言った部員の顔が忘れられない。その年の選抜大会で8強に躍進し、神戸の被災者を勇気づけた。

 野球部は毎年1月の追悼行事にボランティアで参加しているが、震災前後に生まれた部員に当時の記憶はない。折をみて震災の経験を語り、気のないプレーをすれば「野球ができるありがたみを考えたことがあるか」と叱りつけてきた。

 東日本大震災を機に、神戸の子どもたちにもう一度、阪神大震災に向き合わせたいと思った。

 「東北の子どもたちは、16年前の神戸と同じ状況にある。彼らと触れ合うことで何かを感じてくれれば。これから復興を担っていく彼らにも、復興した神戸をぜひ見てほしい」と、大船渡に遠征を持ちかけた。

 この日朝、合同練習に向かうバスで、大船渡の氏家主将と神港学園の鳩川主将は隣同士で座った。山中の合宿所からトンネルを抜けると、視界一面に神戸の街並みが広がった。「立派なビルが建つんだな」と言う氏家君に、鳩川君が返した。「神戸も16年前はビルが倒れていたけど、復興した。岩手もきっとそうなる」(北上田剛、山下弘展、宮武努)

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