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地方大会ニュース

〈佐賀・ターニングポイント2〉逸材、重圧脱し自分の道

2010年07月06日

 「春先まで、どん底でした」。入学時から浴びる注目に、3年生の福田遼河(りょうが)は自分を見失っていた。身長180センチ後半の恵まれた体格から投げ下ろす直球は、1年の時すでに最速143キロ。「10年に一人の逸材」と騒がれた。「みんな期待してるから、うまくやらないといけない……」。周囲の期待は福田の歯車を狂わせていた。

写真練習後、談笑する福田遼河選手(中央)。部室の壁に野球部の教訓「ピンチの裏側」が掲げられている=佐賀北高校グラウンド

 中学3年だった2007年夏、初めて訪れた甲子園で見たのは大会史上5回目となる佐賀北―宇治山田商(三重)の延長引き分け試合だった。アルプススタンドに響き渡る大声援。グラウンドで躍動する「KITAKO」のユニホームがあこがれへと変わった。

 中学時代は主将で、エースで4番。07年春の選抜に出場した小城の左翼手だった兄を持つ野球一家。「(佐賀北が)全国優勝したから、とみんな言うけど、選手一人ひとりを大事にする監督、部長の下で野球がしたい」と強豪校の誘いもあったが、進学先に選ぶことに迷いはなかった。部員約70人の同じ学年には、全国制覇を成し遂げた市丸大介、大串亮平の弟がおり、再び同じ舞台で「がばい旋風を」と意気込んでいた。

 08年夏の大会は1年生でベンチ入り。新チーム結成後、背番号「1」を背負う。だが、エースナンバーの重圧に「期待に応えようと力が入りすぎた」。1年生の冬ごろから、投球フォームが崩れ、ストライクが入らなくなった。「焦りがあった」と福田。上手投げだった投球フォームを変えたり、休みの日は野球から離れたり、試行錯誤を繰り返した。その姿を見た監督の百崎敏克(54)は「投げ方を見失っている」と思った。

 福田はもがいた。全体練習後、照明の明かりだけを頼りに、マウンドから捕手めがけ、投げ込みを続けた。監督との間でやりとりする野球日誌には「ダメだ、ダメだ」の文字が並ぶ。壁にぶつかる福田の調子と反比例し、「福田はどうなった」という周囲の声は高まった。百崎は「福田はまじめな性格の野球小僧。考えすぎるところがある。良い投手にと思ったが、私も答えが見つからなかった」と振り返る。

 百崎は、投手として伸び悩む福田に、別のポジションを経験させた。「足も速く、肩もあり、まだまだ上を目指せる」と思った。二塁手、捕手、三塁手……。福田は「投手から離れたことで余計なプレッシャーがなくなった。でも、投げたい気持ちはいつもあった」。

 練習試合やブルペンで投げてはいたが、制球は良くならない。「フォームが固まらないんです」。6月、野球日誌の中で監督に初めて自ら悩みを打ち明けた。自身も指導法に悩んでいた百崎は福田と話し合った。投手として伸び悩む現状に向き合い、マウンドに立つことだけが答えではないことに気づいた。

 今の定位置は5番・サード、副主将も任されるチームの中心だ。福田は「投手として失敗して良かった。監督と話すことで開き直れた。どん底を経験したから、あとは、はい上がるしかありません」。

 春先、福田は百崎に告げられていた。「高校生は1日で変われる。調子が戻ったら、三塁手から、最後は抑えで投げられるようになれ」。部室に掲げられている古びた板に書かれた詩の中の言葉「ピンチはチャンス」。全国優勝した先輩も教訓にしたその言葉の意味を、福田は今、かみしめている。(敬称略)


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