28年ぶりの夏の甲子園出場を決めた土岐商。選手たちは顔を輝かせながら、3日の公式練習で甲子園の土を踏んだ。その横で選手たちに「兄貴」として慕われる牧田充広コーチ(25)は「広いなあ」と笑顔を隠せなかった。8年前、同じ土岐商の選手として挑んだ夢舞台に、たどり着いた瞬間だった。
■8年後に踏んだ甲子園の土
「甲子園に必ず行けるチームに」。それが合言葉だった。牧田さんが中3の時、多治見市内の野球部員の間で「できる選手は土岐商に集まろう」という話が広がった。
それまで地元で注目を集めた選手は、岐阜市の県岐阜商や私立の中京などに分散した。土岐商は多治見市のすぐ隣の土岐市にある県立校。他の県立校の中では一番、設備も整っているし、県岐阜商出身の工藤昌義監督がいる。土岐商ならば、集結できる――。
「一緒に甲子園を目指そうぜ」。地区大会を総なめした多治見市の中学校でエースだった牧田さんにも、他校の部員から電話がかかってきた。
結局、多治見市から10人が土岐商に入学。その中には、地区大会の決勝などで対戦したライバルチームの捕手、奥村武博さん(26)もいた。「牧田と奥村がバッテリーを組めば……」。周囲の夢がふくらんだ。奥村さんは1年秋、投手に転向。牧田さんと奥村さんの継投で1年生対抗の県大会は優勝に輝いた。
優勝候補筆頭といわれた3年夏。甲子園に「あと1勝」となった岐阜大会決勝。牧田さんはベンチから見守っていた。背番号16。3年春、椎間板ヘルニアになり、回復した時は、もう大会直前。岐阜大会は代打で出場しただけだった。
マウンドは背番号1の奥村さん。ライバルとして互いに意識し、口をきかない関係だったが、牧田さんは奥村さんに呼びかけた。「甲子園に連れて行ってくれ」。だが、試合は5―8で敗れた。何も役立てなかった悔しさに涙も出なかった。
その年の秋、奥村さんは阪神にドラフト6位指名を受け、プロ入り。一方、牧田さんは大学卒業後、講師として土岐商に戻り、野球部コーチに。「不完全燃焼」を脱したい。ノックを打ち、一緒に汗を流すと、甲子園がもう一度、近づいてくるように感じた。
自分の体験から、体の不調を監督に言えない選手にいち早く気づいた。診療所を紹介し、練習量を調節させた。選手たちの兄貴分として欠かせない存在になった。7月28日、土岐商が優勝を決めた時、8年前に出なかった涙が、牧田さんのほおをつたっていた。
6日の甲子園での開会式には、4年で現役を引退し、現在、資格試験をめざして勉強中の奥村さんも姿を見せた。牧田さんは握手を求められ、言われた。「おめでとう。あの悔しさを乗り越えられたお前がうらやましい」。牧田さんは「おれもずっとお前がうらやましかったよ」と言って、奥村さんの手を握りかえした。