ずっと笑顔だった。
エース山形研二君が直球、カーブ、シンカー、スライダーを丹念に使い分け、強打の青森山田を抑え込む。「大舞台で、持っている球を駆使して、相手打者と駆け引きをするのが面白い」。マウンドを楽しんでいた。
8回もあと1人。ここで打席は相手のエースで4番の柳田将利君。それまでの3打席は外に逃げる球を有効に使い、完全に封じていた。が、2球目。甘く入った得意のシンカーをバックスクリーン右横まで運ばれた。手痛い3点目。
直後、マウンドに集まった選手たち。「いやあ、さすがだなあ。でも、最後まで楽しんでやろうぜ」と捕手の桐生宏大主将。マウンド上の輪が解けると、そこにはやはり笑顔の山形君がいた。後続の打者を遊ゴロに打ち取り、味方の反撃にかけたが、逆転はならなかった。
ひょんなことから投手になった。中学のシニアリーグ時代、初めは主に外野手だった。打撃投手をしている時にふざけて何球か横手で投げていたら、監督から呼び出された。「やばい。怒られるなあ」。ところが監督の言葉は「いいじゃないか、サイドスロー」。それ以降、横手投げの投手として自分を磨いた。「あの一件がなければ、今、投手はやっていないかも」
高校入学後、永田昌弘監督に「野手への転向」を進められたり、4カ月間ケガに悩まされたりと、苦難を乗り越え、つかんだ東東京大会での背番号は「11」。監督に怒鳴られる日もあったが、シュートの習得や、フォーム改造などの努力も奏功し、決勝では先発完投劇を演じた。そして背番号「1」で迎えた甲子園。初めて背負ったエースナンバーだった。
2試合とも監督が合格点としていた「3点以内」をクリア。しかも、この日は無四死球。最後までマウンドを守った。「悔いはありません。あこがれの甲子園のマウンドを楽しめました」。少しだけ赤くなった目。それでも、笑顔を絶やさないスタイルを貫いた。