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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>井上明 高校野球歳時記> 記事 蔦監督をたたえる催し2007年11月30日 「攻めダルマと過ごした青春」− 池田高(徳島)野球部を全国の強豪校に育て、01年に亡くなった蔦文也監督(享年77歳)をたたえる催しが11月末、地元の徳島県三好市の池田総合体育館で開かれた。 会場には写真展示やビデオコーナーが設けられ、野球解説者の水野雄仁氏の「蔦監督との思い出」と題した講演。選手権大会や選抜大会の名勝負を演じた教え子6人によるトークショーなど2時間余があっという間に過ぎ、詰め掛けた800人近くの蔦ファンが生前の名将をしのんだ。トークショーでは蔦監督のおおらかさ示す秘話が満載で会場は笑いに包まれた。そんな中からユニークな蔦語録のいくつかを紹介する。 「名前を変えろ」 第64回選手権(82年)優勝投手の畠山準さんが忘れられないのがこの言葉。本格派右腕として入学以来、期待されながら甲子園にあと一歩届かない現状に「俺の文也はひい、ふう、みいの2番。お前の準も準優勝とかの2番。だからよくないんだ。名前を変えろ」といわれ唖然としたという。 「血液型変えられんか」 第58回選抜(86年)優勝投手の梶田茂生さんの思い出に残るエピソード。蔦監督から「血液型は何型や」と聞かれ「A型です」と答えた後のひとこと。これまで活躍している選手はB型かO型が多い、といったデータから「何とか変えられんか」といわれ言葉が出なかったとか。 「170センチ以上は打て」 入学後、1年生に打撃練習のチャンスが与えられたときの条件。背の低い梶田さんは該当せずショックを受けたという。体が小さくてもホームランを打てば使ってもらえると思い、常にフルスイングしていた。「先生から甲子園で優勝するにピッチャーで4番と聞かされた」。身長のハンデを克服した秘密を明かした。 「気楽に100回往復」 第46回選抜(74年)の「さわやかイレブン」で準優勝したエース・山本智久さんは、練習初日が忘れられない。やさしい表情の蔦監督から「今日は軽い練習だから気楽にやれ」と声をかけられ安心していたところ、学校前にある急な階段の100回往復を命じられた、と強烈な出会いを振り返った。「投球に関して細かい指示はなく、自分で考え実行する大切さを学んだ」。 「どぼれがー」 第55回選抜(83年)優勝の水野雄仁さんは、厳しい印象のほうが強い。とくに私生活にはうるさく、練習ではいつもこんな言葉を浴びせられた。「2年の夏に甲子園出場が決まったとき初めて先生の笑顔を見た」。チームの怒られ役は「ずいぶん拳骨ももらったけど、先生のような愛情がなければできない。一生追いつけない存在」と結んだ。 井上明(いのうえ・あきら)1951年、松山市生まれ。朝日新聞大阪本社スポーツグループ記者。松山商(愛媛)のエースとして、69年夏の第51回全国選手権大会決勝で三沢(青森)の太田幸司投手と延長18回をともに無失点で投げ合った。翌日の再試合で優勝。明治大でも投手、主将として活躍した。75年に朝日新聞入社。主として高校野球をはじめとしたスポーツ取材に携わる。 |