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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>恒川直俊 名勝負を振り返る> 記事 空前絶後の大逆転劇2008年04月02日 ◆報徳学園7x―6倉敷工 第43回選手権(1961年) 空前絶後の大逆転劇といえば、この試合が思い浮かぶ。1961年夏の1回戦、夏は3回目出場の倉敷工と、この大会が春夏通じて初出場だった報徳学園の一戦。0―0で迎えた延長11回に両チームが6点ずつを挙げ、追いついた報徳学園が12回に勝ち越し点を挙げ、奇跡のサヨナラ勝利を挙げた。 倉敷工は中国地方屈指の左腕と言われた森脇が、夏の大会直前にバント処理の練習中、一塁手の松本と激突して右鎖骨を骨折して47日間も入院。代わって主戦を務めた2年生投手、永山の頑張りで甲子園まで駒を進めてきた。この試合も倉敷工は永山が先発、報徳学園はエース酒井が先発した。9回まで倉敷工の永山が被安打4、与四死球4、報徳学園の酒井投手は被安打8、与四死球0と、お互い走者は出すが決定打を許さない投球で0対0のまま延長戦に突入した。 10回裏サヨナラのピンチを逃れた倉敷工は、11回表1死から2番中村がチーム初の四球で出塁すると、3番槌田(元・巨人ほか)の遊ゴを、併殺をあせった二塁手が遊撃手からの送球を後逸する失策で二、三塁となり、4番鎌田(元・広島)は敬遠で1死満塁となった。この好機に、5番松本が左翼越えに二塁打を放って2点を奪い、遂に均衡が破れた。続く6番土倉の遊ゴが本塁野選となって3点、更にスクイズと三ゴを一塁に悪送球する失策で2点を追加した。続く9番永山も三遊間を破って一、三塁、ここで遂に報徳学園はエ−ス酒井を引っ込め、背番号11の東をマウンドに送ったが、倉敷工の勢いは止まらず、重盗で更に1点を追加。この回一挙6点を奪うと、誰の目にも倉敷工の勝利は決まったかに思えた。 しかし、ここからドラマが生まれた。勝負を諦めない報徳学園は先頭の背番号13平塚がボテボテの三塁内野安打で出塁、1死後4番藤田は死球で1死一、二塁となり、5番清井の右前打で平塚が還って1点を返した。さらに6番吉村の一ゴで藤田が還って2点目を取ったが、2死となって勝負は決まったかと思われた。 ここで倉敷工はこれまで好投してきた永山を三塁に回し、右肩を痛めていたエース森脇をマウンドに送った。ところが、森脇は7番高橋に四球を与えると、代打の貴田にも三遊間を破られ、この回3点目。倉敷工は再度永山をマウンドに戻したが、報徳は9番東と1番内藤の連打で1点差とすると、この回2度目の打席が回ってきた平塚が二遊間を破る中前打、これに失策も絡んで試合は6対6の同点となった。 追う強みの報徳学園は12回裏、先頭の4番藤田が左翼線に二塁打、5番清井の二ゴで1死三塁になると、倉敷工は2人を歩かせて満塁策をとった。ここで8番貴田が右前に殊勲のサヨナラ打を放ち、今でも語りつがれる奇跡の大逆転劇となった。 勝った報徳学園の沢井監督が「良い思い出を子供達が作ってくれました」と言えば、敗れた倉敷工の小沢監督は「負け惜しみじゃなく、監督冥利に尽きる試合でした」と語った。 それは選手達が勝つことよりももっと大切なことを学んだからだろう。 この記事の関連情報恒川直俊(つねかわ・なおとし)
1940年、名古屋市生まれ。明治大法学部卒。高校野球を中心とした野球史の研究に取り組む。著書に「プロ野球で活躍する甲子園球児の戦歴事典」(2000年東京堂出版、2003年改定)、「出身校別懐かしの甲子園球児たち」(2005年東京堂出版)、「熱球譜‐甲子園全試合スコアデータブック」(2006年東京堂出版)などがある。
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