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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>恒川直俊 名勝負を振り返る> 記事 難敵PL倒し、沖縄に初の大旗2008年02月27日 ◆沖縄尚学8―6PL学園 第71回選抜(1999年) 21世紀を目前に、ついに沖縄に大旗が翻る時が来た。 その前にちょっと沖縄の高校野球の歴史を振り返ってみよう。明治27年5月に沖縄中の最上級生が修学旅行で、大阪、奈良、京都に行った際、京都の三高(現・京大)を訪れ、ここで初めて学生がやっている野球を見た。そして手ほどきを受け、お土産にボールとバットをもらって沖縄に帰り、その年の10月に校内の運動場で紅白試合をしたのが、沖縄での野球の始まりと言われている。 沖縄が高校野球の地区予選に(当時は中等学校野球大会)初めて参加したのは、大正11年の第8回大会からである。当初は九州大会で、その後は南九州大会や東九州大会に所属したがなかなか代表にはなれなかった。 そんな折、昭和33年夏に第40回の記念大会を迎えた時、それを記念して初めて各都道府県と沖縄からの「一県一校制」が取り入れられて、まだ米国の管理下にあった沖縄からも初めて首里が出場したのだが、健闘むなしく1回戦で敦賀に0―3で敗れた。 しかも首里の選手たちは沖縄に帰る船の中で、甲子園から持ち帰った土が植物検疫に引っかかってしまい、海に捨てさせられてしまったのだった。後日これを知った日航の客室乗務員たちが、甲子園の小石を贈り、校内にある「友愛の碑」にはめ込まれているのは有名な話である。 2年後の昭和35年春、那覇が選抜初出場を果たすと、さらに2年後の昭和37年夏に、沖縄(現・沖縄尚学)が南九州大会で宮崎代表の大淀を4―2で破り、初めて夏の大会に自力出場を果たした。この翌年の昭和38年夏(第45回大会)には、出場2回目の首里が日大山形を4―3で破ってうれしい沖縄県勢初勝利を挙げ、昭和43年夏(第50回大会)には興南が初めてベスト4に輝いた。この3年後の昭和47年5月に沖縄は27年ぶりに本土復帰を果たした。 その後昭和54年夏から3年連続で栽監督率いる豊見城がベスト8に進出すると、更に沖縄水産に移った栽監督が同校を昭和63年にベスト4、そして平成2,3年の夏には2年連続準優勝に導き、「沖縄優勝」という夢も現実味を帯びてきた。 そして、その夢を実現したのが沖縄尚学だった。沖縄尚学は昭和43年春(第40回大会)に出場した沖縄であり、この時は31年ぶり2回目の出場だった。初戦比叡山を1―0で破ると、続く2回戦の浜田も5―3で下し、準々決勝では山梨の市川にも先制して4―2で逃げ切り、そして準決勝で最大の難敵・PL学園と対戦したのであった。 試合は激しい点の取り合いとなり、初回沖縄尚学がPL学園の先発で背番号10の西野投手を攻め、1死一、三塁から、4番比嘉寿光(現・広島)の中前タイムリーとスクイズで2点を先制した。 PL学園も2回裏、二つの三失に犠打野選で2死満塁に。ここで2番足立が左前にタイムリーを放ち1点を返した。 その後沖縄尚学が4回表に2死一、二塁から、1番荷川取が右中間に落として1点を挙げれば、PL学園もその裏2死から3番覚前昌也(元・近鉄)と4番七野智秀(元・横浜)の連続右、左への二塁打で1点を取り返す。 7回表沖縄尚学は、4回途中からマウンドに上がっていたエース植山を攻め、四球と送りバント失敗の1死から、4番比嘉と5番松堂の連打で満塁に。そして6番2年生・浜田がストレートの押し出しで1点、7番有銘への初球スクイズを外した球が外角遠く低めに外れて比嘉がかえり(記録は3者盗塁)さらに1点を追加した。 3点を追うPL学園はその裏2死から、遊失と四球の一、二塁に、2番足立の二、中間に落ちる二塁打と、3番覚前の右中間2点タイムリーが出て5対5の同点としたが、その後PL学園は毎回二塁まで走者を進めるが、あと1本が出ず延長戦となった。 11回表、沖縄尚学は中前打の1番荷川取を送った1死二塁に、3番2年生の津嘉山が初球を遊撃左に抜いて勝ち越した。 しかしPL学園もその裏先頭の救援していた植山が中堅越えに大きな二塁打を放ち、9番田中雅彦(現・ロッテ)が三塁に送った後、1番田中一徳(元・横浜)が一塁後方の右翼線にポトリと落としてまた追いつき同点となった。 追いつかれた沖縄尚学は、12回表2死一塁から、9番投手・比嘉公の二塁打で勝ち越しに成功すると、1番荷川取も三塁頭上を痛烈に破るタイムリーでさらに1点加点し逃げ切ったのである。 沖縄尚学はこの試合、打っては強豪PL学園に一歩も引けを取らず、先手、先手と攻めて打ち勝ち、投げても比嘉公投手が8、10回以外毎回の15安打を浴び、6回以外毎回スコアリングポジションに走者を背負いながらも、212球の粘投で投げきった。 水戸商との決勝戦は背番号12の照屋投手が好投。2回表に2点を先制されるもその後を抑えると、打線が爆発し2年生の浜田の本塁打を含む10安打で7点を奪って勝利をつかんだ。こうして昭和33年夏に首里の初出場以来41年、ついに沖縄県民129万の悲願が達成されたのである。 この記事の関連情報恒川直俊(つねかわ・なおとし)
1940年、名古屋市生まれ。明治大法学部卒。高校野球を中心とした野球史の研究に取り組む。著書に「プロ野球で活躍する甲子園球児の戦歴事典」(2000年東京堂出版、2003年改定)、「出身校別懐かしの甲子園球児たち」(2005年東京堂出版)、「熱球譜‐甲子園全試合スコアデータブック」(2006年東京堂出版)などがある。
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