ここから本文エリア

タイトル

寮と野球

2007年09月25日

 日本の野球が学校スポーツとして始まっていたことは、いまさらいうまでもない。しかし、その大きな発展のもとになったのが、寮、あるいは寄宿舎というものだったことはあまり語られない。

写真向上寮で夕食をとる長野・松商学園の選手たち

 実際、寮というものの存在が、その後の野球のありかたに決定的な影響を与えていて、野球が学校スポーツの中心になったのも、応援団というものが発生したのも、そしてフェアプレーの精神がみなぎったのも、寮というものがあったからこそである。

 明治22(1889)年3月22日、第一高等中学校はそれまでの神田の旧校舎から、本郷向ケ岡の新校舎に移転した。そして翌23年3月に東寮、西寮、9月には南寮と北寮の完成をみた。木下廣次校長はこれらに自治を許したから、寮のことをわざわざ「自治寮」と呼ぶ習わしもあった。寮生の数は当初から600名を超していた。ベースボールはそれ以前から彼らの人気のスポーツだったが、このあと彼らはいっそう熱心にそれをプレーするようになった。ベースボール場が南寮と北寮のすぐ前にあったせいもある。(当初は全寮制ではなかったが、明治33年になって、それは実現される)

 寮生には、通学に取られる時間がなく、それだけベースボールに没入できるというわけで、新しいチームが次々に生まれた。

 寮ごとに、あるいは学年や学科ごとにそれぞれのチームができた。チームの名前というのも、その練習場の位置取りによって、「土手下クラブ」「庭先クラブ」「食堂前クラブ」などとされているのが面白い。時間があれば、いつでも彼らは自分たちの練習場に出て、鍛錬を繰り返すことになる。ゲームそのものより練習の方が重視される日本野球の原型が、ここにあるということもできるだろう。

 寮は彼らの生活の基盤であり、連帯感の巣であったから、他校との試合になると、皆で応援するということにもなる。全校から選ばれた選手は、まさに学生全員の代表であった。いくらスポーツといっても、それはただの「楽しみごと」ではなく、彼らの誇りと名誉をかけた真剣勝負という性格を帯びてくるのは仕方なかった。何がなんでも勝つのだという勝利至上主義につながったのも自然なことだった。

 これには、背景としての時代が大きく作用していることも忘れてはならない。世はまさに文明開化の時代。西欧に追いつけ、追い越せの掛け声の中、国家への使命感に燃えるエリートとなれば、なおさら強く勝利を求めた。学生たちが大挙して応援に行くという方式も、ここから生まれたものだ。

 こうした一高のやり方が、いわば一つのセットとなって、やがて地方の中学校にも伝えられていく。ルールや用語などのほか、ゲームの精神までもが統一した形で伝わっていったのだ。


佐山和夫(さやま・かずお)

 1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。
>>主な著作

このページのトップに戻る