ここから本文エリア

タイトル

素手で飛びつく

2007年07月02日

 7月に入り、いよいよ各地で大会が始まる。それぞれの地区で、ベースボールがどのように導入されてきたのかを、球史に見ていくことにする。

 まず、沖縄だが、その歴史は古い。

 そこに野球が伝えられたのは、明治27年(1894年)のことだった。本土修学旅行に出かけた沖縄中学(現・首里高校)の生徒たちが第三高等学校(現・京都大学)を見学したとき、三高生たちから野球の手ほどきを受け、道具をみやげに持ち帰ったのが始まりだ。

 当時の沖縄中学の運動場というのは、もちろん野球など想定して作られてはいなかったから、とても小さいものだった。それでも、好きな者同士が紅白に分かれて、このハイカラなスポーツに熱中したという。秋の運動会で彼らの試合が公開され、野球熱はさらに高まった。

 明治35年(1902年)、たまたま那覇に寄港したアメリカの軍艦ピッツバーグ号の水兵たちが、首里城を見にやってきた。途中で、首里中学の生徒たちが野球の練習をしているのを見て、彼らは大いに驚いた。それはそうだろう。中学生たちのベースボールというのも、かなりのところまできていたのだから。

 水兵たちは、正式に役所を通して試合を申し込んできたのだという。中学生たちもそれを歓迎。こうして、大男ぞろいのアメリカ・チームと沖縄の中学生たちとのゲームが開催された。米兵たちは人力車に乗ってのグラウンド入りであった。

 アメリカ・チームは全員がミットかグラブをはめていたが、中学生たちには粗末な捕手用ミットがあるのみ。内外野手とも素手だった。スコアは23対6。それのみを見れば大差ではあるが、中学生たちはよく戦ったというべきだろう。6点も取っているのだ。

 もっとも、この試合では、悶着になりそうな一件が起こっている。沖縄中学では、それまでは走者は塁についていなくては安全ではないとされていた。たとえ一塁であっても、打者走者はピタリとそこで止まるべきものとされていたらしい。

 アメリカの選手が一塁を走り越したのを見た沖縄中一塁手は走者にタッチ。当然アウトかと思うと、そうでないことが判明。「一塁だけは、走り越してもいい」ということを彼らははじめて知ったのだった。ルールの説明には、英語の先生が立ち会って、結局はなんら悶着にはならずに、円満解決している。

 翌明治36年の米国海軍練習艦ヴィッコーバーク乗組員との試合では、スコアは関係者の話でも「たしか20対10くらいだったと思う」と不鮮明だが、明確に記録されていることもある。中学生たちは、このときにはもう全員がグラブをはめているようだが、試合が白熱してくると、使い勝手の悪いグラブなどを投げ捨て、相手の強烈な打球にも、素手で飛びついていることだ。これには見物人もやんやの拍手を送っている。


佐山和夫(さやま・かずお)

 1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。
>>主な著作


このページのトップに戻る