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タイトル

勝って奢らず

2007年06月05日

 ベースボールを「校技」としていた一高が、明治29年5月に横浜外人倶楽部に初挑戦して勝った話は前回書いた。しかし、それはただの逆転ゲームではなかった。

 一回裏の一高の攻撃のときに、興味深いことが起こっている。

 すでに彼らは4点を失っていた。校友、それに他の学校の学生たちも多くがこの球場に詰めかけていた。

 「さあ、反撃だ―」

 先頭打者は主将の井原外助だった。彼は応援団の期待を一身に受けて球を待った。そして見事に四球を選んで出塁した。ボールがアメリカ製のものだったから、初回表、それに不慣れな一高青井投手が四球を連発して4失点となったのはわかるが、アメリカ投手も四球でスタートとは―。

 井原、歓喜して一塁に走る。一高応援団にも喜びの渦が起こった。しかし、次の瞬間である。

 「アウト!」

 突然の宣告がアンパイアから発せられた。

 「何だ」「どうしたというのだ?」

 一高選手、応援団が息を飲んだ。

 事情は、思いがけないプレーによるものとわかった。一塁に出ていた井原が二塁をうかがって塁を離れたとき、横浜チームの一塁手がまだボールを持っていて、彼にタッチしたというのである。「隠し球」であった。

 『投手の手が上るを見て、奮然直ちに敵の虚をつかんとすれば、如何せむ球は未だ彼の左手に在り、直ちに其乗ずる処となりて線上に憤死す』と一高の野球部史にある。

 いや、もっと驚くべきことがある。次の打者、村田素一郎もまた、四球で出塁した。しかし、彼もまた、同じ計略に引っ掛かってしまったのだ。あっけなくも2死。2人続いてのトリック・プレーによるアウトだった。

 この一連のプレーのことは、日本野球の歴史書ではあまり語られることはないのだが、日米野球の違いの一端を示していて、とても重要な一件だと私は考える。

 しかし結局は、こんなことで始まった試合に、一高は29対4で大勝する。2回以後は完封。選手、応援団共に狂喜乱舞した気持ちもわからなくはない。しかし、それがアメリカ人たちにはカチンと来たようで、一時は国際問題にもなりそうな雲行きだったとか。

 木下廣次一高校長はすぐに学生たちに電報を送った。積年の望みを遂げたことを「大慶至極」として、まずは勝利を祝しながら、しかし、続けて次の意味の忠告を付け足すのだ。「戦いにあって、相手に対して失礼があってはならない。勝って奢らず負けて挫けずというのが、一高の特色ではなかったのか」と。

 この勝利のニュースは、すぐに日本全土に伝えられ、国中に喜びが広まった。ベースボールが各地に浸透していくもとになった点でも、また「勝而不奢敗而不挫」の精神を広めた点でも、このゲームの意味は大きかった。


佐山和夫(さやま・かずお)

 1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。
>>主な著作


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