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日と米、ベースボールへの思い入れの違い

2007年05月22日

 日本の野球が、アメリカのそれとは違って、学生スポーツとして始まっていたことは、いまさらいうまでもない。明治5年、東大のルーツ校、第一大学区第一番中学でのことだった。

 第一高等学校(一高)と名称を変えたその学校の明治29年5月の野球話に興味深いものがある。

 日本にはもはや相手はいないとみた一高チームは、敢然としてアメリカ人たちのチームに挑戦する。一高では彼らのことを横浜外人倶楽部と呼んだが、正しくは横浜クリケット・アンド・アスレチック・クラブ。交渉を重ねてやっと実施に持ち込んだ。試合場は外国人居留地内のグラウンドと決まった。

 一高生たちはそのゲームを「第1回国際試合」と呼んだ。横浜側は学生チームを甘く見ていて、試合前の練習で一高選手が落球したりすると、「あれが選手なのか」などと笑う始末。このゲームの初回、一高の攻撃には特筆すべきことが起こるのだが、それは次回に回すとして、まずはゲームの経過をみよう。

 一高はビジターなのに後攻だった。初回、いきなり4点を奪われる。逆に一高は0。勝負は問題なく横浜のものかと思われたが、終わってみれば、29対4の大差で学生たちの勝ち。相手の得点合計が4ということは、2回以後には一切の得点を許さなかったことになる。しかも真っ向から立ち向かっていって、堂々と打ち勝った。

 このゲームのことは、2つの英字新聞の記事になった。『The Japan Weekly Mail』紙は、「横浜クラブはあらゆる点で一高チームに劣っていて、ひどい負け方だった」と書き、もう一紙の『The Japan Gazette』紙も一高チームの試合運びに感嘆。「学生チームは、アメリカ人たちに、彼らの国技であるそのゲームはこのようにやるのだと教えた」と激賞した。

 一高生たちが帰京したときの情景にも、興味深いものがある。新橋停車場に着いたとき、何人かのアメリカ人が彼らに走り寄った。

 1人は主将の井原選手のところへ近づいていって名刺を出し、「諸君は本当にうまい。日本にこれだけベースボールを習得したチームがあるというのはうれしいことだ」といいながら、10円紙幣を出した。もちろん井原は断った。しかし、相手は聞き入れない。無理やりそれを受け取らせている。

 もう1人は星の徽章をつけた水兵。選手たちをつかまえると、「ああ、もったいない。もしも君たちがアメリカへ行けば、いい金になるのに」。これにも、学生たちは目を白黒させたらしい。

 横浜外国人倶楽部を打ち倒して、国の威信を高めたと誇る学生たちと、彼らの技術をもったいないと見たアメリカ人兵士との対比は、当時の両国民のベースボールへの思い入れの違いを明白に表してはいないか。


佐山和夫(さやま・かずお)

 1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。
>>主な著作


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