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日本野球の父たち

2007年04月10日

 明るい球音が響くシーズンになると、私はいつも思い出す。アメリカは北東の端、メーン州ゴーラム村のウィルソン農場だ。素朴、勤勉、誠実、明朗…。人々の暮らしは、いまも昔と変わっていないのではないか。

 日本野球の父、ホーレス・ウィルソンはその酪農一家の次男だった。南北戦争のあと、日本政府の外国人教師の募集に応じて、明治4年8月に日本にやってくる。28歳だった。

 教えたのは主に数学と英語。いまでは東大になっている学校は、当時は南校と呼ばれていたが、やがて第一大学区第一番中学、開成学校、東京開成学校などと名前を変える。

 外国人教師たちは、日本人学生のまじめさや礼儀正しさに驚きながらも、戸外での運動の不足からくる不健康な生活を心配した。明治5年、ウィルソンは生徒たちを外に引き出す方法として、彼が南北戦争中におぼえていたベースボールを教え始める。

 「この人(ウィルソンのこと)、常に球技を好み、体操場に出てはバットをもちて球を打ち、余輩にそれを取らせて無上の喜びとせしが…」とは当時の学生だった人(「好球生」)の述懐である。

 このあと、ベースボールはこの学校の「校技」として発展。「野球」の訳語を得て、さらに日本独自の高い精神性のスポーツとして日本全国に普及しているのはご存じのとおり。

 しかし、ホーレス・ウィルソン先生のみが「日本野球の父」だったのかというと、そうではない。実は明治8年、ここにもう一人、ストレンジという教師がイギリスからやって来る。英国デボンシャー州出身で、20歳になったばかりの元気者だった。

 彼もスポーツに万能だったが、特に得意だったのがボートとクリケット。ウィルソンの影響で、ベースボールも楽しんでいる。

 しかし、ストレンジ先生の功績をいうなら、スポーツの技術よりもスポーツマンシップを学生たちに伝えたことだろう。その教えの中心を、いくつか取り上げてみよう。

・奮闘努力せよ。負けても、負け惜しみをいうな。

・競技は公明正大に。卑怯なことをするな。

・プレーを楽しめ。自分より優れた相手を敵視するのではなく、師とせよ。

・練習は学業の暇にせよ。練習はさっさと始め、終わったら速やかに去れ。

・審判には服従せよ。人は神に非ず。ときに判定に誤ることもあるが、異議を唱えず、冷静さを保て。・・・

 ウィルソン先生だけでは、日本野球はいまのようにはならなかった。ストレンジ先生がいてこその話だった。この二人が遠くから来られて、同時に同じ学校にいてくれたことが幸いだった。また、その教えを学び、次代に伝える人がこちらに常にいたこともよかった。

 プロを中心としたアメリカ野球とは違って、学生スポーツとして発展してきた日本野球。これはまさに世界遺産ものではないか。



佐山和夫(さやま・かずお)
 1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。
>>主な著作


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