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高校野球黎明期は、現在のような厳格な規定が確立されていなかった。たとえば選手資格は、在学する学校の校長が認めればよく、19歳の選手や、本来は別の学校の在籍者なども出場することができた(選手権大会の選手資格が制定されたのは1922年(大正11年)のことである)。
試合の運営でも、両校が納得すれば、本来のルール外でも認められたようだ。その典型が、1920年(大正9年)夏の大会の、鳥取中学(現・鳥取西高)対関西学院中学(現・関西学院高等部)の試合である。
「鳥取西高野球部史」によると、この大会、鳥取中学の坂本捕手は激しい脚気となり、満足に走れない状態に陥った。そこで、準々決勝では相手・京都一商の了解を得て、塁に出ると代走を出し、次の回にはまた坂本が守りにつくことにした。しかし、6回に坂本が出塁した際、京都一商は臨時代走として投手を指名し、翌日の朝日新聞紙上にて批判されている。

1920年8月19日の大阪朝日新聞夕刊より。
関西学院中が鳥取中・坂本捕手の代走を提案
次の準決勝で対戦した関西学院中学は、坂本選手の打席に限っては本塁からの代走もOKと提案した。つまり、坂本の代わりに最初から代走が走ってもよい、というのだ。鳥取中学はこの提案を受け入れ、坂本の隣に別の選手が待機して、打つと同時に走り出す準備をしていた。しかし坂本は最初の打席で死球を受けてそのまま退き、代走の出番はなかった。そもそも関西学院中学がこうした提案をした理由は、同校のエースも肋膜炎をわずらっていたからだという。
大正時代は各校野球部の選手数はまだ多くなく、主力選手が病気になるとチーム編成にも事欠き、試合ができないこともあった。
1922年(大正11年)に地方大会を制した新潟商は、なんとエースの病気という理由で、全国大会出場を断念している。選手の病気を理由に学校が出場を辞退したのは、この他には一度もない。
従って、この問題の正解は、c.の打者のかわりに別の選手が一塁に走る、である。
《註》
※本講座では、「全国高校野球選手権大会」を「夏の大会」、「選抜高校野球大会」は「春の大会」「選抜」と表記
※特に断りがない限り、“甲子園”とは他の球場で行われた試合も含め、春夏の全国大会すべてを含む