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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>ニッポン人脈記〈甲子園アルバム〉> 記事 〈甲子園アルバム14〉天国と地獄みた牛若丸2007年08月20日 85年、甲子園は熱狂につつまれた。阪神タイガースのランディ・バース(53)、掛布雅之(52)、岡田彰布(49)が4月の巨人戦で本塁打をたたきこむ。伝説の「バックスクリーン3連発」だ。
監督は吉田義男(73)。「あの試合、シーズンの道しるべができたような気がしましたわ」 京都の山城高で甲子園に出場、立命館大を中退してタイガースへ。トタン板をおき、不規則バウンドをつくって練習、華麗な守備で「牛若丸」の異名をとる。 この年夏、吉田たちは長期遠征「死のロード」で5連勝。リーグの首位に立った。 8月12日、悲劇がおきる。大阪へ向かう日航ジャンボ機が墜落した。吉田は東京にいた。「知ってる人が乗ってなければいいが」。不安は的中し、阪神球団社長中埜肇が63歳で帰らぬ人となる。 吉田と中埜はともに前年10月、監督と社長になっていた。中埜は勝っても負けても、球場の通路で待っていて「ご苦労さん」と声をかけてくれる人だった。吉田らはユニホームに喪章をつける。 勝ちたい。しかし、そこから6連敗。「重苦しかった。弔い合戦で勝とう勝とうと思いすぎた」。だが、あせりは顔に出さなかった。バースに「監督がパニックになってはだめ」といわれていた。 * 三浦一夫(75)は甲子園球場長だった。PL学園の清原和博(39)、桑田真澄(39)らの最後の夏を迎えた球場で悲報を聞く。群馬から応援にくるはずの球児の親も犠牲になった。翌日、生存者がみつかり、電光掲示板に「4人が奇跡の生還」と速報を流した。 三浦は阪神電鉄本社にいたころ、朝一番にでてくる中埜とよく顔をあわせた。運輸畑の三浦が車両のモデルチェンジを役員会にはかると、後押ししたのが専務の中埜だった。「いま走っている車両は中埜さんが賛成してくれたもの。あの日は、ただただショックで。大変な方を失ったと」 8月末、阪神はようやく息をふき返す。10月、神宮でのヤクルト戦でリーグ優勝。大阪のファンは次々、道頓堀川にダイブした。 甲子園に凱旋した吉田はチャンピオンフラッグを手に夕暮れのグラウンドを一周する。「ファンが泣きながら『ありがとう』といってくれた。涙は隠すものと思うが私もとめどなく泣きました」 日本シリーズで西武を下し、悲願の日本一に。「吉田さんは選手全員がサインしたボールをもってきてくれた」と中埜の次男克(55)。 * 翌86年4月、掛布はナゴヤ球場で死球を受ける。左手を骨折した。「相手の決め球を一振りでしとめようとした。それまでだったら、その前の甘い球を打っていたんですが」。日本一になり、心のすみに油断があったのか。 掛布の離脱でチームに勢いがつかない。不協和音。バースまで「ヨシダの作戦はバントばかり」と采配を批判した。この年3位。 87年も、はやばやと最下位の泥沼にしずんだ。吉田はファンの罵声をあび、深夜、自宅にいたずら電話がかかる。「地獄でした」。現役時代、スランプに陥ったときに禅の教えをこうた老師、盛永宗興を京都にたずねた。盛永は花園大学長をつとめていた。 「泥まみれになっても最後まで全うしなさい。そういわれて思い直し、投げ出さずにシーズンをやりとげましたわ」 解任は球団事務所で告げられた。ふと目をあげると、2年前の自らの胴上げ写真が飾られていた。野球後進国といわれたフランスに渡り、7年間、青年たちに野球を教える。「ムッシュヨシダ」と親しまれ、仏代表監督もつとめた。いま野球解説者である。 掛布も88年に引退、解説者に。連続三冠王のバースは米オクラホマ州の議員になっている。 吉田監督時代の選手やコーチのOB会がある。「天地会」という。日本一の「天国」と2年後の「地獄」をみた仲間が年にいちど有馬温泉につどう。ことし1月、いま阪神監督の岡田があいさつした。「第二の天地会にならないよう、天と雲ぐらいでがんばっていきたい」。30人の宴が、どっとわいた。 |