ここから本文エリア

ニッポン人脈記

〈甲子園アルバム15〉深夜に快音「イチローだ」

2007年08月21日

 いま大阪の難波神社の管理人をしている平川恵一郎(68)は、02年までオリックス合宿所の寮長だった。91年暮れ、新人の入団式で「スポーツ刈りのひょろっとした高校生」と出会う。鈴木一朗と紹介されたその少年が、イチロー(33)だった。

写真平川恵一郎さんと久巳さん=大阪市の難波神社で
写真イチロー選手から届いた記念ボール

 平川は寝屋川高(大阪)で3回、甲子園に出ている。社会人野球の丸善石油で選手、監督。スポーツ用具店を開いて7年目、丸善石油時代から知り合いのオリックス球団代表井箟重慶(72)に「新しく神戸にできる合宿所の面倒をみてくれないか」と頼まれた。

 寮長になった91年、甲子園のテレビ中継をみて愛工大名電(愛知)のイチローに目をとめる。囲碁仲間にオリックスのスカウト三輪田勝利がいた。平川は碁を打ちながら、「足が速くバットを操るのがうまい。肩も強い。採ったらどうや」。首をかしげる三輪田を何度もくどいた。

 イチローはドラフト4位で入団する。1位はいま大リーグ・カージナルスの田口壮(38)。

 親元をはなれ、45部屋の合宿所に入ったイチローに父宣之(64)が2週間に1回、交換の布団を届けにきた。平川の目に映ったのは「口数の少ない、頑固な子」。外出して門限を破る選手もいるのに、イチローは毎夜11時から屋内練習場に向かう。

 平川の妻久己(72)は覚えている。「夜更けにカーン、カーンと音が寮にひびく。ああ、イチローくんやなあって」

 2年目のある日、イチローが急に帰ってきた。しょんぼりしている。代打でヒットが打てなかったといい、2軍落ちを告げられていた。平川が慰めようとしたら、「1試合出させてもらったら、必ず1本はヒットを打ちますよ」。

 「よっぽど自信があるんやなと思った。いいわけではなく、翌年から本当に打ちましたからね」

 3年目、監督仰木彬のもとで「振り子打法」が開花する。寮の個室も1軍用に格上げされた。彼の部屋をのぞいた平川は目をみはる。カーペットに2カ所、彫ったようなへこみがあった。

 「素振りの足の跡ですわ。ほら、王が日本刀で一本足打法の素振りをしてたでしょ。タタミが擦り切れるまでやった。あれと同じです」

 平川は甲子園で2回、早稲田実のエースだった王貞治(67)と戦っている。57年春の選抜では完封負け。その年の夏、平川らの宿に王から「選抜のようないい試合をしましょう」と手紙がきた。その試合は延長11回、王がノーヒット・ノーランを演じた。

 王は東京の下町生まれ。中学時代、のちに巨人で一本足打法の師となる荒川博(76)と出会い、左打ちを勧められた。高3の夏、東京大会決勝でサヨナラ負けすると、甲子園へ向かう相手チームを東京駅に見送りにいった。そんな律義さは中華料理店主だった父から教えられたものだろう。

 「おやじは中国人。日本に受け入れてもらったと感じていて、感謝しなきゃいかんと、しょっちゅう兄や自分にいっていた」

 

 王は巨人で「世界の本塁打王」となり、ダイエーの監督としてオリックス時代のイチローと対戦する。求道者のようにバットを振った者同士だが、イチローが01年に大リーグに移籍するまでじっくり話すことはあまりなかった。

 06年2月、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表のキャンプ初日。イチローはチームの先頭で全力疾走し、「彼は孤高」と思っていた王を驚かせる。「あれでリーダーが決まった」。大会中、ふたりは語らう。

 「バッティングって、やさしいと思ったことはありますか?」

 「そんなことまったくないよ」

 イチローが王に学んだのは「人間性。あきらかに僕には足りていないものばかり。でも行き着くところは一つだと思います」。

 平川はオリックスの寮長を退いたあと、知人の紹介で難波神社の管理人になった。毎年12月、イチローから、そのシーズンの記録を刺しゅうした記念ボールが届く。育ててくれた人を忘れぬ気持ちの証しである。


ここから広告です
広告終わり

このページのトップに戻る