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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>ニッポン人脈記〈甲子園アルバム〉> 記事 〈甲子園アルバム16〉二転三転、スコアラー人生2007年08月22日 北京五輪野球日本代表のスコアラー三宅博(66)は、甲子園三塁側にのこるツタを見上げながらいう。「あの2階の部屋。ナイターの資料の整理で、よく夜明けまでいたもんです」。昨年まで25年、阪神タイガースのスコアラーをしていた。
岡山県で生まれ、倉敷工高でノックの雨をあびる。野球漬けの毎日、帰宅は夜10時。甲子園に3回出た。タイガースに入団すると、同じショートに「牛若丸」とよばれた名手、吉田義男(73)がいた。 5年目、結婚が決まった秋にひざの靱帯を切り、翌年ユニホームをぬぐ。1軍出場は46試合だけ。「あのころは元気なやつらを見るのがいやでした」 義父が経営する鉄鋼卸会社で働く。いざなぎ景気のさなか、営業先で「プロ選手くずれか」といわれても、「はい、こんなんもおります。ありがとうございます」。サラリーマンがすっかり板についた14年目のある日、阪神のスタッフから電話がかかってきた。「戻ってこないか」 当時の球団社長小津正次郎がたまたま、三宅と同じ歯科医院に通っていた。そこの院長は野球好きで草野球に三宅を誘っていた。そんな縁から、チーム立て直しをめざす小津の肝いりで呼ばれたのだ。「うれしかった。野球への思いを断ち切ろうとしても、ずっと未練はありましたから」 2軍コーチからスコアラーに転じ、会社員時代に身につけた事務能力が生きる。データ分析にパソコンをとりいれた。ランディ・バース(53)らが相手投手のくせをたずねにきた。 名スコアラーといわれた三宅は昨秋引退し、故郷の岡山に帰ろうと思っていた。そこへ今年1月、五輪監督に決まったばかりの星野仙一(60)から電話。お祝いをいおうとしたら、「そうじゃなくて、ヒロっさん、またいっしょにやってくれんかの」。 ◇ 星野は三宅と同郷である。中1のころ、高3の三宅が甲子園でプレーする姿をみた。同じ倉敷工へと思ったが、「君の力で甲子園に連れて行ってくれ」とくどかれ、倉敷商へ。エースとして迎えた高3の夏、これに勝てば甲子園という東中国大会決勝で敗れた。 その夏の甲子園開会式を星野は自宅のテレビでみる。悔しくて、押し入れに隠れて泣いた。 「あの気持ち、忘れたことはない。甲子園はおれの原点だな」 中日ドラゴンズに入り、甲子園で名をなした選手には絶対負けたくないと執念をもやす。三宅とはチームはちがっても「ヒロっさん」「仙ちゃん」の仲。02年、阪神監督になり、三宅のデータをもとに2年間采配をふるった。 その星野から五輪へ誘われた三宅は「精いっぱいやらせてもらいますわ」。二転三転の人生、また挑戦の舞台をもらえて自分は幸せだと思う。 ◇ 6月17日、父の日。晴れわたった甲子園で元高校球児がつどう「マスターズ甲子園」が開かれた。大会名誉会長は星野である。参加者は約700人。おなかがせりだした熟年も、白髪の80歳もユニホームで整列した。 星野の開会宣言。「若きころ、この甲子園を夢みてチャレンジした。つらいこと、悲しいことをのりこえてきた。きょうはもう一度あのころを思いだし、楽しんでください」 第1試合のマウンドに立ったのは白木原亘(45)。天王寺高3年の夏、大阪大会1回戦でサヨナラ負けした。ぽっかりあいた夏休み。これから何をしよう? 野球から学んだことを子どもたちに伝えたいと体育教師になる。公立校で野球部監督をして「スポーツはしんどいことをのりこえる。人生、理屈抜きでがんばらないといけないこともある」と教えた。 スタンドには息子の舜(16)と滉(13)。ふたりとも野球をしている。「きのう、父は楽しそうにスパイクを磨いてましたよ」 汗だくで白球を追った日、負けて涙を流した日、名勝負に胸をうたれた日――。人生と時代の記憶にかさなる甲子園。心に生きる甲子園。 |