ここから本文エリア

ニッポン人脈記

〈甲子園アルバム12〉トンカツ頼ってどうする

2007年08月18日

 試合の歓声がきこえてくる阪神甲子園駅。球場に向かう途中にあった食堂兼みやげ物屋「甲子園シミズ」は、昨年10月、60年近く続いた店をたたんだ。

写真清水祥子さん=閉店前の「甲子園シミズ」で
写真芳本三栄子さん
写真徳江正一さん

 22歳で結婚、清水家の店を切り盛りしてきた祥子(66)は後片づけをしていて、1枚の古い色紙をみつける。

 「甲子園の 甲子園に 私の古里がある」

 作家佐藤愛子(83)が30年ほど前、立ち寄ったときに贈った色紙だ。祥子の夫の母、浪子は戦前、愛子と「おばちゃん」「お嬢ちゃん」と呼び合う近所づきあいをしていた。

 甲子園という町にある、甲子園の店。「ふるさとって言ってくださって、ホントうれしい」

 祥子が義姉の栄子(74)らと店に立ったのは阪神のエース村山実の若かりしころ。試合後、応援団がおでんをつつき、倉庫代わりに太鼓や旗を預けていく。「いってらっしゃい」「お帰りなさい」。家族のようにつきあった。

 還暦をすぎて祥子は、崩れ落ちたみやげもののバットが頭にあたり、軽い脳梗塞になった。浪子や夫があいついで死去。もう潮時、と思った。閉店。更地になった店のあとをみて涙がこぼれた。「息子は65歳が定年やからというてくれるけど、みなさんにサヨナラもいえなくて、ほんとに堪忍」

    ◇

 「甲子園シミズ」と同じ年、球場のそばにできた「やっこ旅館」の主人、芳本武志(60)は2代目だ。「戦争がおわり、球児が泊まるところがないって、おやじが京都の古い家をこわした木材を運んで建てたと聞いてます」

 妻の三栄子(56)がいう。「でも、子どもたちが負けて帰ってくるとションボリしている。先代のおかあさんが、忍びないって球児を泊めるのをやめちゃったんです」。春夏の大会中、ある新聞社の取材拠点になる。

 高校チームの多くは神戸や大阪のホテルに泊まるようになった。だが「やっこ」は94年、鹿児島県の球児の宿として復活する。芳本夫妻をくどいたのは鹿児島県高野連の理事長だった児玉義人(60)。「目の前に公園があり、朝夕みんなで体操したり草取りしたり。なにより、ご主人、おかみさんの人柄がよかった」

 畳の部屋が11。球児たちは自分でユニホームを洗濯し、食べおえたら洗い場まで食器を運ぶ。

 はじめ三栄子は力がつくと思って肉料理ばかりこしらえた。何キロも太ったという選手がいて、あわててトレーナーに栄養知識を聞く。「肉はエネルギーに変わるのに時間がかかるって。いまは試合のたびに粗食ですわ」

 3人の息子を育てた肝っ玉かあさんは、選手のしつけにもきびしい。「帰ってきたら献立きくより、まず『ただいま』やろ」「トンカツ食べようが、負けるときは負ける。そんなんに頼ってどうすんの!」。この8月も大会が終わるまで3週間、ほかの予約をことわって鹿児島の球児を待つ。

    ◇

 球場をはさんで反対側にある中華料理店「龍園」の主人、徳江正一(61)は盛岡生まれ。小学生のとき見に行ったプロ野球で阪神が好きになる。まわりは巨人ファンばかり。「判官びいきなもんで。へそ曲がりやね」

 中1のとき、父が死ぬ。家計が苦しく高校を中退、横浜、名古屋、神戸で料理を修業した。結婚していまの店をかまえたのは29歳。「しょっちゅう甲子園にいける思うてね」。だが、試合のある日はかき入れ時。調理しながら、ラジオに耳をそばだてた。

 「どうしても見たい日は、嫁が代わりに鍋をにぎってましたわ」

 近所の指圧店にかよっていた現役時代の田淵幸一(60)や江本孟紀(59)が店に来る。阪神の選手寮は目と鼻の先で、そこにいた掛布雅之(52)も常連に。好物は、薄焼き卵と中華あんをかけたチャーハン。「掛布ライス」と名づけて名物になる。

 阪神の寮が引っ越してさみしくなったが、ここを離れるつもりはない。「昔の選手やらが来るから」。解説者になった掛布や江本が今ものれんをくぐる。「『変わってないね』っていってくれる。ありがたいね」


ここから広告です
広告終わり

このページのトップに戻る