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ニッポン人脈記

〈甲子園アルバム3〉「藤村」コール3代7人

2007年08月09日

 9年連続日本一、「V9」をなしとげた巨人の元監督、川上哲治は87歳になった。外出はおっくうになったが、野球のテレビ観戦は毎日かかさない。

写真藤村富美男さんの息子や孫たち。(左から)一仁さん、賢さん、純子さん、哲也さん、光司さん=三重県鈴鹿市で
写真川上哲治さんと藤村富美男さん(右)=56年のオールスター戦で、日刊スポーツ提供

 「何ともならんかった。ヒゲがはえとるんですよ、藤村さんは」

 記憶の底から浮かび上がるのは73年前、甲子園の決勝。熊本工の川上は、呉港中の藤村富美男の速球にキリキリ舞いし、3三振。ふたりは草分け期のプロ野球に進み、終生のライバルとなる。

 富美男は広島県呉市で生まれた。野球が盛んで、兄も海軍工廠チームの花形だった。春夏6度、甲子園へ。戦火に散った悲運のエース沢村栄治らとしのぎを削る。

 卒業の年、プロ野球がはじまる。富美男はタイガースに迎えられた。背番号10。「ミスタータイガース」の誕生だった。川上も2年遅れて巨人に入る。

 戦争がライバルの勝負を中断した。富美男は2等兵となり、ニューギニアなど南方戦線で死地をくぐる。川上も徴兵され、敗戦の日を東京で迎えた。

 再開されたプロ野球で、赤バットの川上は「打撃の神様」の異名をとる。富美男は三塁手に転向、ゴルフのドライバーをヒントに長尺のバット「物干しざお」で豪打をふるった。

 50年、2リーグ制に。別当薫らタイガースの「ダイナマイト打線」主力が新球団に引きぬかれた。藤村も誘われたに違いない。だが「わしゃ、タイガースの藤村や」と居残った。川上はいう。

 「サムライでした。ひとりでがんばっていた。藤村さんも他球団に行っとったら、あのチームはつぶれていたと思う」

    ◇

 富美男の長男、哲也(59)には、小学生のころのこんな記憶がある。父に大阪のパチンコ屋に連れていかれ、ファンが群がる。自分も玉をはじいていたら、当たり穴に入っていないのに、どっどっと玉が出た。「藤村の息子ということで、ホールの人が裏で操作してくれたんでしょう」

 父はよく素振りを教えてくれた。「剣道ですね。上段からメンを打つのと同じで、スイングはそれが横になっただけだと。両腕が伸びたところでインパクト。そこが一番大事だと」

 哲也は65年、兵庫の育英高で春の選抜大会に出る。チームメートに、のちにプロで300勝投手となる鈴木啓示(59)がいた。初戦で3安打すると、「さすが藤村二世」と新聞に見出しが躍った。

 法大から本田技研に入り、三重県の鈴鹿で監督を10年。偉大な父の名がついてまわり、重荷に思えた日もある。「人前で父の話はしたくなかった時もありました」

 哲也と妻純子(58)の長男、一仁(28)は96年、三重の海星高から甲子園の土を踏む。代打で決勝タイムリー。試合後のインタビューで「これもおじいちゃんのおかげですか」。えっ、なんでそうなるの? 僕が自分の力で打ったのに。ミスタータイガースの孫であることがうとましくなる。

 大会中、一仁は「お父さん、もう野球やめる」と哲也に電話した。哲也はかつての自分とかさね、「わが家の宿命。がんばれ」と励ました。

 哲也の次男の賢(25)も海星高から甲子園へ。「藤村」のアナウンスに大きなどよめきがわく。重圧より、誇りに思えた。幼いころ、父と同じように富美男から教わった剣道の素振りをして打席に入る。「そしたらタイムリー。鳥肌が立った」

    ◇

 富美男は現役引退後、しばらくコーチをつとめ、球界を去る。ファンの経営する商事会社のサラリーマンになった。マージャン、競馬を楽しみ、大の甘党だった。晩年、糖尿病のせいで視力を失う。92年、75歳で世を去った。

 「ベッドの横のテレビに阪神戦が映っていた。最期まで聞いていたんだと思います」と哲也。

 富美男の弟、隆男はタイガースの投手。次男の雅美(57)とその息子光司(24)は00年、育英高の監督と選手として甲子園に出場、「親子鷹」と呼ばれた。

 3代7人の「藤村」がアナウンスされた甲子園。一族のホームグラウンドである。


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