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ニッポン人脈記

〈甲子園アルバム11〉港で捨てた「外国の土」

2007年08月17日

 かつての沖縄に、甲子園ははるかに遠かった。

写真58年、沖縄から初出場した首里高
写真安里嗣則さん
写真栽弘義さん

 戦後、米軍に統治され、1952年にようやく地方大会に参加する。だが鹿児島、宮崎などの代表に勝たないと甲子園に行けないしくみで、負けが続いた。

 日本高野連会長をつとめた佐伯達夫は、当時のことを自伝にこう書いている。沖縄のチームが甲子園を見学に来ていると聞き、「『しまった。沖縄のことをすっかり忘れていた』。私は思わずヒザをたたいてつぶやいた」。

 58年夏、首里高が沖縄から初めて甲子園へ。監督の福原朝悦(78)は選手らとパスポートを携えて、高度成長にわく本土に丸一日かけて船でわたった。

 「旅館で『日本語お上手ですね』『教科書は何を使っていますか』ときかれた。わたしらは外国人だったんでしょうね」

 初戦で敗れて那覇港にもどったとき、ある「事件」がおきる。本土復帰前、持ち帰った甲子園の土が植物防疫法で「外国の土」とみなされ、捨てられてしまった。

    ◇ 

 沖縄国際大の監督、安里嗣則(67)はこのとき、コザ高3年生。新聞で「事件」を知る。

 「まさか、と異様な気がしましたね。戦争で草も木もないほどやられた沖縄から行ったチームに、なんてことするんだと」

 沖縄戦のときは5歳。家族と牛をひいていて米兵の銃撃をあび、目の前で姉が息をひきとる。妻の俊子(63)も「ひめゆり学徒隊」の姉を失っている。少年時代、米兵のボールを拾い、野戦用テントを切ってミットを作った。

 沖縄のことを気にかける佐伯は、安里ら高校球児4人を甲子園に招く。

 「沖縄はダブルプレーで拍手がわくのに、本土の選手は体格がよく、ショートバウンドでもぱっとすくって投げる。それと甲子園のスケール。すごい球場があるもんだと思った」と安里。

 佐伯から「将来、指導者になりなさい」といわれた安里は日体大に進み、本土の野球を学ぶ。65年、母校の監督として甲子園へ。72年、本土復帰。安里は佐伯が沖縄に来ると出迎え、晩年はつえ代わりに肩を貸した。80年、佐伯死去、87歳。

 99年春、沖縄尚学がついに甲子園の頂点をきわめた。安里は沖縄県高野連理事長としてアルプススタンドにいた。「万歳」とウエーブ、応援団はみな泣いた。「佐伯さーん、優勝したよー」。安里は空に向かって叫んでいた。

    ◇

 安里の親友だったのが、ことし5月8日に他界した沖縄水産高の監督、栽弘義である。享年65歳。豊見城高をひきいて甲子園の常連となり、90、91年の夏には沖縄水産を準優勝にみちびいた。

 ふたりは20代から沖縄県高野連で技術強化のコンビをくむ。全島のチームが参加する体力測定をはじめた。「沖縄はひとつ。みんなで強くなろうと思った」と安里。

 この3月、心臓手術の前、栽はいった。「安里さん、野球やめないでよ。私が一番年上になるから。甲子園に2文字の忘れ物があるから、それまでやるよ」

 いま安里は思う。「2文字は『優勝』。むかし沖縄は選手の体も小さいし、弱かった。沖縄もやれるんだとひっぱったのが栽さんですよ。夏の優勝をめざしていたのに、悔しいね」

 我喜屋優(57)は68年、沖縄勢で初めて興南がベスト4に進んだときのキャプテン。試合に勝つたび、新聞に「もう異端者でない」「本土へのひけ目 吹き飛ぶ」と見出しがおどった。

 今春、母校の監督になった我喜屋の誕生日は、6月23日。沖縄戦がおわった「慰霊の日」と同じである。幼いころから誕生日を祝ってもらったことはない。

 「親たちの世代は戦争でつらい体験をした。私にはよくわかるが、今の子たちは『はあ?』でしょう。でも、それは戦争とか沖縄の復興とかを野球に重ねないで、純粋に野球にうちこめる時代になったということだと思う」

 「慰霊の日」の正午、甲子園への地方大会が開かれている球場で、球児たちは1分間の祈りをささげた。


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