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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>ニッポン人脈記〈甲子園アルバム〉> 記事 〈甲子園アルバム8〉ツバ吐く江夏しかった2007年08月14日 甲子園球場は、8月1日に83歳になる。大正の初めにはじまった「全国中等学校優勝野球大会」の人気が高まり、阪神電鉄は兵庫県西宮市に新球場を建てる。甲子園の名づけ親は専務の三崎省三。1924年元旦の西宮神社「えべっさん詣で」で、ひらめいた。
「本年は、きのえ・ねの歳(とし)であります。甲は十干の、子は十二支のトップであります。これから建設しようとする野球場も、日本一、東洋一のものでありたい」 ◇ 完成当時、外野スタンドは土のうえに木の座席が並んでいた。外壁に植えたツタは、やがて球児の聖地のシンボルになる。 その翌年、「甲子園の土守」藤本治一郎が地元に生まれている。生家は半農半漁。15歳でグラウンドキーパーになった。戦火が激しくなり、物資供出のかけ声のもと、甲子園は内野の鉄傘をはぎ取られた。グラウンドはイモ畑と化し、米軍の焼夷弾が落ちた。 平和がきて、藤本は懸命にグラウンドをよみがえらせる。季節にあわせて土の配合をかえた。雨の多い春は色あわく、日ざしの強い夏は黒々と。白球が映える鏡のようなグラウンドをつくりだす。 「土は生きものや」が口癖だった。67年、阪神タイガースに入団したての江夏豊(59)が土ぼこりを吸ってグラウンドにツバを吐くと、皆の前でしかりとばした。江夏は二度と吐くまいと誓う。 そんな藤本にしごかれたのが辻啓之介(62)。藤本の娘と結婚。酒の卸売会社に勤めていたが、仕事が合わないと辞め、グラウンドキーパーになる。 「トンボ」というT字形の道具で土をかきならす。かんたんだと思っていたら、意外に難しい。「トンボにかける力が強すぎると土の山が残る。浮かせすぎても波打ってしまう。オヤジは無口で偏屈で頑固。何も教えてくれん」 ある年、辻はタイガースのキャンプ地でブルペンをこしらえた。投手板から本塁まで約18メートル。見ていた藤本がいった。「いがんでる(ゆがんでいる)。やり直し」 「そんなことあるかいって測ると、本当にいがんでるんだな。3〜5ミリの違いなら、オヤジは一目でわかった」 義父を目標にした辻は、芝生にも情熱を注ぐ。夏だけでなく春もみずみずしい芝の上でプレーしてほしい。82年から冬芝を育てはじめた。「腹へってないか」「風邪ひいてないか」。毎朝、芝に語りかける。この植えつけで年中緑のじゅうたんが生まれた。 「野球のだいご味は外野へ抜ける打球。ツーベースかスリーベースか。そのスリル」。芝の長さはボールの転がりを左右する。5ミリ、15ミリ……。試行錯誤の末、たどりついたのが10ミリ。「5年以上かかったな」と辻。 95年、藤本は70歳で逝く。辻はひつぎに、トンボのミニチュアを入れた。 ◇ いまキーパーは16人。チーフの金沢健児(40)は高校生のとき、スコアボード係のアルバイトをした。手書きから電光掲示板に切り替わる前の年だ。グラウンドにはPL学園の清原和博(39)、桑田真澄(39)がいた。ボードのすき間からプレーを見て「ものすごいやつがいるもんだ」と感嘆した。 20歳で辻に弟子入りして3カ月目。ローラーがけをしていて、わずかなすき間を残してしまった。「辻さんからすごく怒られました。バウンドが変わって選手の顔に当たったらどないする、人生終わってまうやんけ、と」 03年、辻と金沢は球場事務所で気象レーダーを見つめていた。わきたつ夕立雲。辻は「大丈夫や、雨は降らん」とポツリ。風向きと雲の位置で占うすべを金沢に教える。この年、辻は引退。奥義の伝授だったのかもしれない。 金沢はいう。「甲子園のグラウンドがいいのは藤本さんと辻さんの貯金があるから。将来、貯金を増やして次の代に渡したい」 昨秋、全面改修がはじまった。3年後の春、内装やスタンドを一新し、授乳室もある近代的な球場に生まれ変わる。ツタは大半刈りとられた。伝統をつぐ種から苗を育て、ふたたび甲子園を飾る。 |