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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>ニッポン人脈記〈甲子園アルバム〉> 記事 〈甲子園アルバム6〉審判は見た「奇跡の試合」2007年08月12日 夕方にはじまったゲームは延長に入り、照明がともった。
79年8月、星稜(石川)対箕島(和歌山)。16回裏2死、リードされた箕島の打者が一塁にファウルフライを打ち上げる。スタンドの悲鳴。 「終わったかな」 二塁の審判、木嶋一黄(58)は思った。その瞬間、フライを捕ろうとした一塁手がころぶ。ボールはグラウンドに転がった。 命拾いした打者のバットが快音を放つ。木嶋はホームランを確かめ、右腕をぐるぐる回した。また同点。「こんな試合あるんか、奇跡や」。胸の中で叫んでいた。 木嶋は、関大一高(大阪)で捕手としてプレーしたが、甲子園にはとどかなかった。関西大で主将として全国大会準優勝。実家の商店を継ぎ、大学OBの誘いで審判の道に入る。 甲子園の審判となって4年目、30歳の夏。小さなミスが続き、逃げ出したくなった。「大会を降りたい」と先輩にいうと、「あと一試合やってみろ」。それが星稜対箕島だった。引き分け再試合目前の18回、箕島がサヨナラで勝つ。 「神様がくれた試合でした。『高校野球すごいやろ、お前、ほんまは審判やりたいやろ、がんばれ』といわれた気がした。あの試合まで、プレーを判定するだけが審判だと思っていた。審判もアマチュアリズムなんです。ぼくは心技体の心が欠けてたんですね」 木嶋を励まし育てたひとりが「名審判」と呼ばれ、昨年74歳で亡くなった郷司裕である。 郷司は夜の語らいで、木嶋の肩を抱き寄せて、こういった。 「木陰で着替え、試合がおわれば汗をふいて、すっと帰る。原点は、校庭や小さな球場でやる野球の中にある」 木嶋はあの試合以来、落ちこんだチームのベンチに「元気だそう」と声をかけるようになった。いま高野連の審判規則委員長。若い審判たちに体験を語り、郷司らにおそわった精神を伝える。 ◇ 星稜と箕島のゲームで三塁の審判は達摩省一(70)だった。関西大の監督時代、木嶋を教えていた。「あの試合は最高。もう十分や、引き分けでええやないか、再試合させたいなあと何度も思った」 達摩は寝屋川高(大阪)で投手、別の高校で監督として甲子園をめざしたが、夢かなわず、審判になってあこがれのグラウンドに初めて立つ。涙があふれた。 一塁の審判、吉田(旧姓・小林)加寿男(74)も城東工業(大阪)時代、甲子園に出られなかった。目の前でころんだ星稜の一塁手を気にかける。25年後、星稜と箕島OBの招待試合で再会、彼が野球の指導者となっていたことにほっとした。 球審の永野元玄(71)は、一塁手の転倒を見た瞬間、「ぶあーっと自分がオーバーラップしました」。土佐高(高知)の捕手としてのぞんだ甲子園の決勝で、9回最後の打者のファウルチップを落球、そのあと逆転負けした。あの日のつらさがよみがえった。 永野は、退場する星稜の投手堅田外司昭(45)を通路で呼び止めている。「球場をもう一度みておきなさい」といい、腰の袋からボールを取り出して手わたした。 「ゲームセットのボールでは負けた時を思い出してつらいだろう。だから、試合の途中に使っていたボールにしたんです」 ◇ 堅田は松下電器に入り、社会人野球でプレーする。選手、マネジャーから審判になり、永野らと再会した。03年から毎年、甲子園でジャッジする。 「いろんな人の思いを受けとめたから恩返しをしたいし、選手に信頼される審判になりたい」 ことし3月の選抜大会で、審判の世界で一人前とみなされる球審を初めてつとめた。打球が投手の足をかすめた場面ではマウンド近くに駆けより、気遣った。 試合後、かつて永野からボールをもらった通路に、木嶋が待っていた。ふたりは無言で握手した。 甲子園の審判に選ばれるのは大会ごとに約45人。全国には6000人の高校野球の審判がいる。 6000通りの物語がきっとある。 |