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ニッポン人脈記

〈甲子園アルバム7〉尾藤スマイルは伝染する

2007年08月13日

 甲子園の名将は何人もいるが、「スマイル」で知られたのは尾藤公(64)だ。和歌山県立箕島高をひきいて春3回、夏1回の優勝。

写真尾藤公さん
写真上甲正典さん
写真阪口慶三さん

 「いやあ、ぼくもかつては子どもらを怒鳴ったり、ビシビシやるほうでした」

 少年の日、長嶋茂雄(71)にあこがれた。箕島高に入り捕手になる。投手が打ちこまれると監督にビンタをくらった。「悔しくて泣きました」。思えば根性野球全盛の時代だった。

 近畿大を1年でやめ、親類の世話で地元銀行に就職。でも、仕事にはあまり身がはいらない。「毎日さっさと仕事を切り上げては、母校のグラウンドで監督を手伝い、ノックしていた」

 23歳で監督を継ぎ、銀行を辞めた。この年、逸材が入学してくる。東尾修(57)。のちにプロの西武でエース、監督。

 その2年前、尾藤は銀行員としてスクーターで外回り中に中学の試合をみかけ、東尾の速球にほれこんでいた。中学卒業前、京都の私立校にさそわれたと聞き、東尾の家を訪ねる。まさに京都へ布団を送り出すところだった。

 「4月からおれも監督1年生や。一緒に地元で甲子園をめざそう」。ミカン畑につれだして、くどき落とした。68年春、東尾の力投で甲子園に初出場、4強入り。「東尾との出会いが人生を変えましたわ」と尾藤。

 70年春には、のちに南海入りする島本講平(54)をエースにかついで初優勝をはたす。だが、27歳で全国制覇した青年監督には強引なところもあった。チーム運営をめぐりOB会ともめる。ならばと選手たちに監督信任投票をさせた。全員が支えてくれると思ったら、不信任が1票。

 やるせなくなり辞任した。ボウリング場で2年半働く。「あのとき、たくさんのお客さんに接して、謙虚になれた気がする」。箕島の監督に復帰した。

 77年春の甲子園。まずい守備をしてベンチに戻ってきた選手に「大丈夫や。おまえのミスは計算に入れとる」と笑いかけた。「いつもそんな顔でいてくれたら、僕らやりやすい」と選手たち。

 そうか、よし、それでいこう。「尾藤スマイル」が誕生する。チームの活躍で、ニカッと笑う顔がテレビで何度も流れた。

    ◇

 「なんで笑っとるんやろ?」

 上甲正典(60)は尾藤のスマイルをみて首をひねった。愛媛県宇和島市で薬局を営み、母校の県立宇和島東高でコーチしていた。

 35歳で監督になってから愛媛大会の決勝までいくが、悔しい負け方がつづく。「天国と地獄。このままではやめられん」。選手をしごく鬼になる。

 上甲にとって尾藤は「雲の上の人」だった。知人に紹介してもらい、遠征して練習試合をかさねた。87年、甲子園の初舞台をふむ。だが緊張して余裕がなく、笑えないまま初戦で敗れた。

 その年秋の四国大会。愛媛の野球界の大先輩で、NHKの高校野球解説をしていた池西増夫(75)から声をかけられた。

 「なあ、上甲君よ。スポーツって本来、楽しいもんやろ。そんな苦虫かみつぶすような顔でベンチにすわっていて、子どもが明るく楽しく、のびのびできるか?」

 押しつけるのでなく、心をともに楽しむ。翌88年春、宇和島東は上甲のにこやかな顔に勢いづき、初優勝。「尾藤先生と池西先生。おふたりから教えられ、スマイルをやれました」という上甲はいま済美高(愛媛)の監督だ。

    ◇

 この春、阪口慶三(63)は大垣日大高(岐阜)を準優勝にみちびいた。準々決勝でスクイズを失敗した選手に向かって両手を広げ、おどけたしぐさをしてみせた。

 東邦高(愛知)監督時代は「鬼の阪口」だった。88年春の決勝でスクイズに失敗、上甲の宇和島東に敗れている。

 「あのとき僕はすごく怒った。それを思い出してね。子どもたちをリラックスさせないといかん。だから今度は、ものすごいジェスチャーで笑ったんです」

 いまは「仏の阪口」である。名将たちの笑顔は苦労の裏返し、そして球児の心を知る境地なのかもしれない。


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