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ここから本文エリア 現在位置:高校野球>コラム>佐山和夫 野球道具箱> 記事 「ヘルメット」(1)2008年02月26日 今では誰もが使うヘルメットだが、松尾俊治氏によれば、最初は「かっこうが悪い」とか「面倒くさい」とか、ずいぶん嫌われたのだそうだ。 甲子園大会での着用は昭和35年(1960)の第42回大会から打者に義務づけられ、38年からは走者もこれをかぶることにされた。 きっかけとなったのは、昭和29年の東京都秋季大会で、頭に死球を受けた打者が死亡するという事故が起きたことだった。亡くなったのは、八王子工の木村功選手だった。 東京都高野連では、すぐに事故再発の防止に取りかかり、アメリカのリトルリーグで使用されていたものを参考に、ヘッドギアの考案を急いだ。そして、翌30年の夏から早くも使い始めたのである。 歴史的に見ても、最初は選手たちからあまり歓迎されなかったというのはアメリカでも同じで、古い話では1880年代のものにすでにそのことが出ている。なんでも、ニューヨーク・アスレチック・クラブのウイックリフ・スロックモートンという人がゲーム中に投球を頭に受け、次の試合にはヘルメット、つまり「鉄かぶと」をかぶって登場したが、仲間に笑われてすぐにやめたのだとか。 次に名前が出てくるのは、レガーズのところでも顔を出すニューヨーク・ジャイアンツのロジャー・プレスネイハンである。彼がレガーズをユニフォームの「外に」つけて出場したのが1907年4月だったことは先に述べたが、その同じ年の6月18日、試合中に頭に死球を受けた。 そして、入院中に考えたのがヘッド・プロテクター。つまり、バッティング・ヘルメットの原型である。フランク・モグリッジという人が作り、運動具メーカーのリーチ社が売り出した。リーチ社といえば、この翌年の1908年(明治41年)に日本へ野球チームを送り込んできて大学チームと17戦し全勝した会社として知られる。彼らは野球の楽しさを日本で一般に宣伝し、野球用具の販路を開きたいとの希望を持っていたが、このときに頭部用の防具まで持って来ていたかどうかはわからない。ボール、バット、グラブ、ミットなどが彼らの主要商品だったことは明らかだった。 それはともかく、捕手の脚部の防具と打者用ヘルメットの原型を考え出したロジャー・プレスネイハン選手というのは、よくよく身体の保護に神経を使った人には違いなかった。当時のスポーツ・ライターの一人、エド・グリロは、「もしもロジャー・プレスネイハンが、このままの調子でいろんな種類の野球防具を開発し続けるならば、試合の度にその行き来に小型の快速馬車一台くらいは必要になるだろう」とからかっている。 しかし、なにはともあれ、楽しいはずのスポーツに事故がないのが一番。安全を目指して、ヘルメットの進化はまだ続く。 佐山和夫(さやま・かずお)
1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。 |