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今までの出場辞退校

2007年07月10日

 今回はせっかく晴れの出場権を取得しながら出場を辞退した学校を見てみよう。(別表1別ウインドウで開きます)に記載した通り、これは春の方が圧倒的に多く、春は12回で11校が辞退し、夏は3回で4校となっている。

 春は表から見て、浪華商が2度も辞退しており、また出場辞退した門司東、津山商の2校は、出場を手にしたのが後にも先にもこの時だけなので、全く惜しいことをしたものである。

 夏の新潟商には代理校が出場しなかったが、出場した代理校の成績が、不思議なことに春夏ともすべて初戦敗退が10校、準々決勝での敗退が4校と、その2つに限られているのは全くの偶然とはいえ珍しい現象である。

 出場辞退の理由を見てみると、直接部員の責任でないものが散見される。部員には責任がないのに、毎日毎日、甲子園を夢見て必死の練習を積み重ね、やっと栄冠を手にしながら、出場を諦めなければならない選手の気持ちを思うと本当に胸が痛くなる。

 特に昭和42年春の津山商は、当時食中毒に見舞われながらも必死に頑張って栄冠をつかんだのに、応援団の不祥事で辞退せざるを得なくなった。次の北海も青函連絡船で青森まで来ていながら、生徒の暴力事件が発覚して引き返すという可哀相な状況だった。

 夏の最初の辞退校は、大正11年の新潟商で、出発直前に数人の選手が病気で倒れてチーム編成が出来ず、やむなく棄権を申し出たわけである。代理校に長岡中を出場させようという案も出たが、何せ大会直前のことで、今から通知しても開催に間に合わないだろうという事で、結局代理なしの1校減の16校のままでの開催となった。

 2回目は昭和14年の事で、東京代表で帝京商(現:帝京大高)が日大三中を9対6で破って優勝したが、日大三中より登録のない選手が出場しているとクレームがあり、帝京商は結局規則違反で失格となり、日大三中も選手資格に触れる人がいたようで辞退し、3位校だった早稲田実が代表校となったのである。その時問題となった帝京商の選手は、明大から中日に進んだフォークボールの元祖・杉下茂投手であった。

 そして3回目がまだ記憶に新しい平成17年の明徳義塾である。

 残念ながら今でも再三の注意、勧告にもかかわらず、各学校の喫煙、飲酒や暴力事件が後を絶たない。また昨今、特待生問題が表面化し、中学生の勧誘における問題や、指導者の問題など、いろいろな面で学校、高校生諸君ともエリを正す必要がある。

 ただ最近は野球部員の直接の不祥事ならともかく、そうでない問題については、その処分が以前より寛容になってきているのは本当に良い事だと思うし大賛成である。



恒川直俊(つねかわ・なおとし)

 1940年、名古屋市生まれ。明治大法学部卒。高校野球を中心とした野球史の研究に取り組む。著書に「プロ野球で活躍する甲子園球児の戦歴事典」(2000年東京堂出版、2003年改定)、「出身校別懐かしの甲子園球児たち」(2005年東京堂出版)、「熱球譜‐甲子園全試合スコアデータブック」(2006年東京堂出版)などがある。
>>主な著作


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