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敗者復活戦からの優勝

2007年07月04日

 高校野球は1回負ければすべてが終わる1本勝負の戦いである。だからどんなにリードされても、最後の最後まで諦めないで必死に戦う姿が胸を打ち、感動を呼ぶのである。

 しかし、過去に敗者復活戦が取り入れられ、そこから勝ち上がって優勝した学校があるのをご存知だろうか?

 夏の大正5年(第2回大会)に敗者復活戦が1試合取り入れられた。大正6年の第3回大会には2試合行われ、その中から愛知一中(現・旭丘高)が優勝をさらってしまった。 まず1回戦の長野師範(現・信州大学教育学部)戦で、5回に内野の不手際から3点、6回にも1点を追加され、7回から1点ずつを返したが、1点及ばず敗れた。

 しかし、1回戦で敗れた6チームの中から抽選で4チームが選ばれ、勝ち残った2チームが準々決勝に出場出来る事となっていた。愛知一中はその抽選に当選した。

 敗者復活戦に出場するチームは翌日2試合を戦わなければならなかった。愛知一中はまず午前中の敗者復活戦で、和歌山中(現・桐蔭)と対戦。長谷川武治投手が相手を2安打、10奪三振で完封、初回の1点だけで勝った。午後の準々決勝は、同じ復活組の明星商(現・明星)と対戦。1対1の8回表2死で、三ゴロを一塁手が失策、二進していた四球の走者が生還して辛勝した。この試合、長谷川投手は1点を取られたものの、ノーヒットの17奪三振という快投だった。

 準決勝に駒を進めた愛知一中は、杵築中(現・大社)戦の9回に追い上げられて2点を許したが、決勝進出を決めた。長谷川投手はこの3日間で4試合を完投しながら、2安打、11奪三振の力投だった。

 決勝戦で関西学院中(現・関学高)と対戦するが、ここでも幸運が訪れた。

 関学中のエース内海寛投手(元・毎日のコーチ)と、長谷川投手の投げ合いとなった。長谷川投手は、0対0の6回表に、安打と送りバントの後、連続四球を与え1死満塁に。内海投手が二ゴロを打つ間に1点を許した。その裏、愛知一中が2死無走者となった所で、猛烈な夕立が来てノーゲームとなり、再試合となった。あと一人アウトになればコールドゲームが成立し、関学中の勝利が宣告されるというところを救われたのである。

 前日の雨がウソのように晴れ上がった決勝戦の再試合は、再度両投手がお互いに一歩も譲らぬ投手戦で、0対0のまま延長戦に突入した。

 その延長14回表愛知一中が、遊撃手の一塁悪送球で出塁した走者を三塁に置いて、2死後1番小島嶋二の当たりそこねの三ゴロが内野安打となり決勝の1点を挙げ優勝を飾った。

 右足を負傷しながら50イニングを一人で投げた長谷川投手は、52個の三振を奪う力投だった。5試合すべて1点差の苦しい試合を投げ切った精神力も見事だった。

 そしてこんなエピソードが残されている。それは組み合わせ抽選会で、主催者側から敗者復活戦の説明があった際、たまたま愛知一中の長谷川主将から「もし、敗者復活戦から勝ち上がって勝ち進んでも優勝出来るんですか?」と質問があった。「勿論優勝です」と大会委員が答えたが、そんな事態を予想していた訳ではなく、あくまで念のための質問が、現実のものとなったのである。

 この変則的な敗者復活戦は、この大会を最後に廃止された。



恒川直俊(つねかわ・なおとし)

 1940年、名古屋市生まれ。明治大法学部卒。高校野球を中心とした野球史の研究に取り組む。著書に「プロ野球で活躍する甲子園球児の戦歴事典」(2000年東京堂出版、2003年改定)、「出身校別懐かしの甲子園球児たち」(2005年東京堂出版)、「熱球譜‐甲子園全試合スコアデータブック」(2006年東京堂出版)などがある。
>>主な著作


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