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大分ニュース〈特集〉

〈負けられない夏4〉元同級生「決勝で対決」

2007年07月05日

 04年8月、大阪府で行われた硬式少年野球の全国大会。玖珠町の硬式少年野球チーム「玖珠ドリームボーイズ」は初戦で、兵庫県のチームに完封負けした。帰路のフェリーの船内で、中学3年のメンバー14人はみな押し黙り、うつむいていた。

写真明豊・小野投手
写真森・木村主将

 中学最後の大会を全国大会出場という華々しい成績で飾り、天にも昇る気持ちだったのに、全国との実力の差を思い知らされ、みな落ち込んでいた。そんな時に、誰かが突然、口を開いた。

 「高校、どうしようか」――。

 みんな何となく、気になりだしていた話題だった。すでにいくつかの高校から、誘いがかかっていた選手もいた。

 「私立なんて、寄せ集めだろ。おもしろくないっちゃ」。小野学人は、強豪校の多い私立高へのあこがれと、一方で各地から集まった名選手がしのぎを削るイメージへの不安がないまぜとなって、そんな批判を口にした。

 遊撃手で主将だった木村剛将が「だったら、このままがいい。地元の森高校で、みんなで野球をやろう」。「うん、それが一番いい」「そうだ。そうだ」。みんなの顔に笑顔が戻り、それを見た木村がこう締めくくった。「全国大会にも出場したこのメンバーなら、高校に入っても甲子園を十分狙えるわ」

 だが、8カ月後、このうち3人は森へは入学しなかった。小野もその1人だった。

 全国大会後、チームで唯一選ばれた九州選抜に加わった際、関係者から、明豊入りを誘われたのが転機となった。強豪校で、自分の力がどこまで通用するのだろう。挑戦したい気持ちが日増しに強くなっていった。悩みに悩んで、父親や兄弟、中学の担任の教師にも相談した。そして、最後は自分で決断した。

    ◇   

 小野は2歳の時、酪農家だった祖父の手伝いをしている最中、わらの裁断機に、当時の利き腕だった左手を巻き込まれ、手首から先を失った。

 幼稚園や小学生のころは、「手がないくせに」とからかわれ、よく泣きながら帰った。今でも小さい子どもと接する時は、つい身構えてしまう。無邪気な子どもは、思ったことをずけずけと言う。だからつい、左手のことを何か言われるかもしれない、といつも心配になる。

 野球は小学2年の時から始めた。野球好きの父親の影響だった。が、その父に、「片手でやれるスポーツではない」と反対された。それでも、地元の少年野球チームに入り、猛練習の日々に耐えた。その姿を見た父は根負けして、本気で野球を教えてくれるようになった。毎日毎日、日が暮れるまで、2人でキャッチボールをした。

 グラブは、投げる時は左脇に抱えているが、ボールを受け取る時は、右手にはめ直す。父からはこの動作をひたすら速くできるように特訓を受けた。できないと怒号が飛んだ。

    ◇

 木村は、小学校のころからの親友だった。

 互いの家は目と鼻の先だから、小、中学校はいつも一緒に通ったし、野球チームでも一緒だった。小野が人一倍努力してきた姿も、木村はずっとそばで見てきた。

 小野は明豊に行こうかどうか、木村にも相談した。が、木村は「マジで?」と驚くだけ。あとは何を言っても「そうなんやあ」とそっけなかった。一緒に森高校で野球をやろうと誓い合った仲なのだから、賛成してくれるわけがなかった。

 木村にとって、その話は唐突だったし、ショックだった。平静を装うのが精いっぱいだった。だから、こう思えるようになるまで時間がかかった。「本人が決めたことを周りがぐちぐち言っても仕方ない。笑顔で送り出そう」

 高校の入学式の前に、久しぶりに一緒に遊んだ。別れ際になって、木村は一言、「頑張れよ」と声をかけた。小野も「お前もな」。

 それから約2年半後。小野も木村も、ともに県大会の優勝候補と目される明豊、森の中心選手となっていた。「最後の夏」に、野球の神様はこの2人に一つの課題を与えることにした。それは、「負けられない夏」という試練だった。(文中敬称略)

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