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高知ニュース

野球、甘くなかった 明徳義塾・馬淵烈選手

2007年07月30日

 明徳義塾のエースで主将の馬淵烈(3年)は、同校野球部の「青雲寮」で生まれ育った。物心ついたころから、寝ても覚めても野球に打ち込む「お兄さん」と毎日を過ごし、夏も春も幾度となく甲子園に足を運んだ。

写真試合終了後、ベンチ前に並んだ馬淵烈(右)と馬淵史郎監督(左)

 自分がその甲子園に出場を決めるための試合。先発した烈は、3回途中までに3点を失い交代。8回途中から再登板したが及ばなかった。試合後、ベンチで泣き崩れる選手たちのなかで、冷静に振る舞っていた烈だったが、一人ベンチを後にすると、裏のトイレにこもり、声を上げて泣いた。「あんなに頑張ったのに、なんでや」

 同校野球部の監督を務める父、馬淵史郎は87年に同コーチに就任し、90年から監督を務めてきた。烈が生まれた89年以降、同校は高知大会を計10回制し、甲子園に出場。烈は「明徳は強くて当たり前。甲子園に行くのは当たり前」と思ってきた。

 昨秋の新チーム結成時、主将に選ばれた烈。「馬淵監督の息子」と注目は集まった。中学時代は、「お前なんか、馬淵監督の子どもだからレギュラーになれるんだ」と言われ、悔しくて泣いたこともあった。しかし、高校では「自分は部員の一人。親子ではない」と、厳しい練習にも耐え、監督にも他の選手と同じように怒られてきた。

 しかし、「強くて当たり前」でなくてはいけないと思っていたチームは、多くの敗北を喫した。それでも主将として「頂点」を目指すチームの100人近い仲間を引っ張った。今春からはエース番号も背負い、眠れぬ日々も過ごした。

 泣き崩れる選手たちに馬淵監督は、「世の中に出たら、努力しても報われないこともある。お前たちはよく頑張った」と言葉を贈った。小さな頃から身近だった甲子園には、手は届かなかった。「野球はそんなに甘くない」。烈は自分に言い聞かせた。

 (敬称略)


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